もうけっこう経ってしまったが、先日「散るログ」のチルドさんのこの記事を読んだ。
なんとなく似たようなことを感じていたので、頭の整理に書き留めておく。
自分のことは棚に上げて書くので、私のことは棚に上げて読んでほしい。
ではどうぞ。
同じノリでも、ひと昔前は笑顔が生まれたのに、今は怒りが生まれる。
いつからこうなったのか、ただ笑いたい笑わせたいだけなのに、いろんなモノゴトをよけてよけて、「これぐらいなら大丈夫かな??」って探り探りやらなきゃならない。
探れば探るほど、発する側からも受け取る側からも面白さが減る。
誰もが知識や情報を得やすくなったからなのだろうか?
なぜだか、過剰に「許さない空気」を感じる。
日本ボクシング連盟の山根会長もそうだし、日大タックルもそう。
「分かりやすく悪いもの」を見つけると、徹底的に叩く。
それ以上でもそれ以下でもない同じ話を延々と続ける。
(※本文と全く関係ないが、「延々と」を「永遠と」とか、「感慨深い」を「考え深い」とかいうまちがい多い。べつにいいけど。)
反面、分かりやすくないと反応しない、というかできない。
奈良判定よりも、なんの気なしに限りある資源を浪費する(ことを咎めない)社会の方がよっぽど大きな問題である。
シンプルに言えば、世の中の空気を作り出すのは鈍いバカなんだろうと思う。
というより、世の中の大多数であるバカのために動かなければ利益を得られない社会か。
さておき。
で、みんなでお互い監視し合って「ここでこんなこと言って笑い合ってるけど、こういう立場の人のこと考えたら笑っていいことじゃなくない?!」なんてやり出す。
一般庶民であっても、世のすべての人の立場を考慮した発言をしなければ許そうとしないのである。
オンラインでもオフラインでも、その場(シチュエーション)ならアリなことがあったっていいことが理解できない。
(※コソコソ悪口言ってもいいだろではなく、当事者にぶつける前提でなければ、例えそれが当事者の目に触れたとしても、よほどのことでなければ個々人の価値観の表現自体は自由だということ。もっといえば「よほどのこと」の線引きができてるかどうかとか、その線引きを感じ取れるかどうかとかもあるが)
そしてそんな自分の正義が一番正しくて、それを認めさせないと気が済まないのだ。
あ、コレあれ。
東日本大震災の時のテレビ。
「こんな時にお笑いやってる場合か」ってやつ。
でもアレ、結局は「こんな時こそ辛さや悲しみを忘れて笑顔になれる時間も必要」って落ち着いたはず。
あの時の流れからみても、震災直後のみんな余裕のない時は許せなくて、少し落ち着いて余裕が出てきたら許せて笑えるようになる。
とすると今まさに、どんどん余裕のない世の中になっていっているということなのだろう。
それと、ネット社会がまだまだ過渡期にあるということもいえるのかもしれない。
いろんなことを言うヤツがいて当たり前で、こういうのはそっとしておいて心の中で笑ってあげましょうねっていう、心持ちというか、それこそ余裕のある受け取り方が、世の中全体としてはまだできるようにはなっていないということだろう。
余裕のありなしでもうひとつ感じるのは、「優位に立とうとする」こと。
近頃よく見聞きする言葉で「マウントをとる」ってやつ。
リアルなら、肩書きや年収を必要以上にアピールしたりとか。
まず自分の方が上であることを知らしめたい。
ネット上になると、それに加えてSNSのフォロワー数とか、ブログのPVとか。
個人の価値が、その辺りの数字に置き換えられて、ネット上の見ず知らずの人間同士の間で、交わらずとも半ば自動的に上下関係ができあがる。
そして、立場どうこうより前に人として敬うという部分の欠けた、始まりから歪んだコミュニケーションが生まれる。
思い出すだけで気分が悪いが、ツイッターでフォローしていた毒舌キャラ的なアカウントのツイートをなんの気なしに引用リツイートしたところ、「オマエなにマヂレスしてんの?ww」みたいなレスが返ってきたことがあった。
同調するニュアンスのリツイートだったこともあり、正直「ハァ?!」って感じだったが、それ以上突っ込ませない穏便な返事をしてフォローを外した。
なんかやっぱ違う。
ベースにあるべきものがないのだ。
私はフォロワー150ぐらい、むこうは数千。
あくまで推測になるが、同じことをインフルエンサー的な人がやったとしたら、それをただリツイートしたり、「ですよね」的な返事をするはず。
言ってることでなく、フォロワー数で態度変えちゃう。
ゾノだったら「毒舌、カッコ悪い」って言ってるはず。
反面、毒舌キャラ同士では、仲良くリツイートし合ったり、いいねつけ合ったりしてる。
「毒舌、カッコ悪い」
傍から見てる分には、面白半分でよかったものの、実害を被るとそうも言ってられない。
毒舌なんて、せめて実名顔出ししないと成立しないスタンスだと改めて解った。
自分は顔も名前も隠して、有名人だの顔出し実名ブロガーのことをあーだこーだ言う。
そら刺されるって。
それに、全部あと出しジャンケンなんだってば。
ブログだのSNSのとある主張に対して、安全な場所からそれ見て、落ち着いて考えて、でうまいこと言って揚げ足とったり茶化したりして論破した気になってる。
そんなんちょっと頭回れば誰でもできるんだって。
「でもなんか違う」って感じとれるからやろうとしないだけで。
あと、キャラ関係なくフォロワー多めの人からたまに流れてくる「クソリプさらし」みたいのも、見てて気持ちのいいものではない。
内容どうあれ、さらされる方は、仰向けで乗られて両手ガッチリ押さえつけられてる状態で、公開処刑でしかない。
現実に変換してみたら、「いい大人が中学生の首根っこつかんで目ェ血走らせてる」状態かもしれないんだから。
なのでそういう人を見かけた時は、ネット上で運よく影響力を持ってしまっただけの「器じゃない人」扱いすることにしている。
っと、悪口が止まらなくなってきたのでストップ。
だからなんかまぁ、実社会の閉塞感とか余裕のなさが、(主に)SNSの普及でネット社全般にも広がってきてるということだろうと思う。
現状独り身の人は「ケッ」ってなるかもしれないが、こんな世の中で私が個人的にすごく感じていることは、(自分の場合は)家族がいるからなんとかなってるということ。
べつに家族に限らず、数は少なくとも、実社会で気心の知れた付き合いのできる人がいるかどうかが、とても重要な気がする。
いいとかダメでなく、生きるのが楽になるってこと。
さて、今回分かったことがふたつある。
ひとつは、読まれるかどうかでなく、吐き出すだけで自分にとっては充分有益であるということ。
もうひとつは、「だである調」で押し切るのはけっこうしんどいということ。
である。
じゃ、おやすむ!!