さてとポテト、林やすむ[@hayashiyasumu]です。
スイスイ泳ぐよ水曜日。
- ターゲットを変えて怒りをぶつけるだけの大衆
- 「大衆」は政治による教育の産物
- 教育が正しければ「お金=しあわせ」にならない
- 犯人探しに意味はない。ってゆーか「犯人はお前(も)だ!」
- 国によって量産された「大衆」に潰される日本社会
ターゲットを変えて怒りをぶつけるだけの大衆
いやはや、一芸人の「直接誰を傷つけるワケでもないウソ」からこれだけ騒げる国ってなんなん?
おっと、この前みたいに全部なんなん?でいかなきゃならなくなるので、なんなん?やめとこ。
この、誰とも分からない「大衆」の恐ろしさよ。
自分も含めてみんなそうなはずなのに、みんな自分はそうじゃないと思ってるっていう。
宮迫、亮出てこいの次は、岡本社長出てこい。
あの会見じゃ収まるものも収まらないですよね。
岡本社長辞めろ、大崎会長辞めろ、までいくんでしょうか。
なんて思ってたら、極楽加藤がブチ上げたことで、もう岡本社長どうでもよくなっちゃってる。
あとはまぁ宮迫、亮が戻るかどうかってのもそうだし、こうなったら加藤も辞めなきゃ許さない。
逆に、大崎会長辞めるとなったら松本も辞めろまでいくかどうか。
出処不明のあり合わせの怒りを、次々変わるターゲットにただぶつける。
って、そんなんしてどうなるのよ??
ささいなウソを許さない社会、お笑いで笑えない社会になるだけでしょ。
この先、そんな窮屈な社会で生きなきゃならないのは自分たちだってことがイメージできない。
ここまでくると、なにに騒いでいるのか分からなくなってくるが、本来問題にしなきゃいけない部分がこの記事(ラジオ番組の書き起こし)でよく分かる。
ラジオは冷静でいいですね。
「大衆」は政治による教育の産物
ってこういうネガティブなことを考えると、たいがい「政治」とか「お金」とか「教育」とか、そういうでっかいことに行き着くというか、そこで行き止まりになるんですよね。
よく分かんないってのと、分かったところでどうしようもないってので。
そもそも一番デカいとこが「政治」で、そこで決められたことの中でみんな生きていくワケですよ。
私から言わせると、「大衆」ってのは、「政治によって定められた教育」の産物であって、大衆の声が隣近所にしか届かない社会なら(ごまかしごまかし)成立してたものが、こんなに得してる人がいる一方で、こんなに損してる人も山ほどいるという現実が可視化されることで、「そういうもん」と割り切るしかなかった(表に出ることのなかったはずの)感情が刺激されて、ネガティブな感情でもなんでも言葉にして発信してしまうと。
大衆に「それをしたらどうなる」とかいう、最低限の想像力が働かない。
政治がそういう教育をしてこなかったからですよ。
「最低限の想像力」による危機回避は、個人の資質のみに委ねられているワケです。
こういう社会で。
乱暴な言い方をすれば「さすがに(あんたらが創り上げた大衆という名の)バカでも気づくわ」っていうのが、今、次から次からボロボロ溢れてて、気づいたバカの大半は本能のままに反応する(ことしかできない)んですよ。
教育されてないから。
えっとコレ、おっきなくくりの話で、全員が全員そうじゃねえよっていうのは置いといてのことですからね。
教育が正しければ「お金=しあわせ」にならない
ちょっと戻りますけど、経済的な損得のみで、不公平感とか妬み嫉みを(SNSで他人を叩いたりするくらい)過剰なまでに感じてしまうこと自体も、教育だと思います。
「お金」とか「幸福論」みたいなこととか、教育によって本質的な部分だけでも下地ができていれば、人間にとっての価値がここまでお金に偏る社会にはなっていないはずです。
つって、大衆のやることを大衆のせいにしてもなんにもなりません。
自分で自分を切りつけてるようなものです。
こんな「大衆量産化システム」の中で生きていれば、誰しも大衆的な部分はあって、そこに自分で気づいて、自分はそこにはまらないようにしたり、身近な人に自分の気づいたことを伝えたりしていくぐらいしか、現実的にやれることはありませんけど。
あとはこうやって、ちっぽけだろうが表現するぐらいで。
犯人探しに意味はない。ってゆーか「犯人はお前(も)だ!」
今回の闇営業でも、どんな事件でもそうですけど、犯人突き止めて吊るし上げるなんて意味ないんですよ。
やったことの償いは必要ですけど。
ざっくり言うと、あらゆることのベースにこの社会があって、その社会にのっかって生きている以上、その責任は、たとえ見えないぐらい小さなひと粒分だろうと我々一人ひとりにもあって、社会全体として背負うべきものだと私は思ってて。
具体的に何をするでなく、それを理解する。
悪いことって「社会の在り方」と「人間の本能」のかけ合わせで出てきちゃうもので、ゼロにはできなくても減らすことはできるはずなんですよ。
社会がどうあれば、人間の本能のどこを理解すれば、不正や事件やいじめが減るのか。
そんなんを考えてやっていくことに意味があるんではないかとね。
国によって量産された「大衆」に潰される日本社会
私、今とても恐ろしいのが、このままいくと、国によって量産された「大衆」に国が潰されるんじゃねえの?ってこと。
いやね、国とか大企業が、大衆の本能に寄り添っちゃマズいんですよ。
大衆のゴキゲンうかがっちゃマズいんです。
大衆の本能をだまくらかして利益を上げるようなことばっかりやってないで、意思を読み解かないと。
大衆が本能のままに求める、過剰だったり実際は人類にとってマイナスになるようなサービスを、安易に社会が叶えれば、苦しむのは大衆であって、苦しむ大衆ありきの社会になる。
大衆は、回りまわってるだけなことに気づかずに、目の前の(自分や誰かの損によって生まれた)得に飛びつくことを繰り返す。
右どなりの人に足ひっぱられながら、左どなりの人の足ひっぱってるのがずーっと数珠つなぎになってるのが今の日本社会じゃない??
なんかまぁ、そういう感じでね、コントロールするために量産してきた大衆が下手に声上げることを覚えちゃって、今度は社会の方が大衆にすり寄ることになっちゃうみたいな。
大衆の本能という名の人類にとってマイナス要素の大きな判断に従わざるを得ない社会になってしまうというか。
なんかそんなことを、ビルの受付で思っている大衆のひと粒なのである。
じゃ、おやすむ〜!!