私の体調

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ダメージジーンズが市民権を得た時、私は私をアップデートすべきだったのかもしれない

どうも、鈴木やすむです。

ちょっとワケの分かりにくいことを書きます。

今41歳。

つい数年前まで、「世の中ってのはだいたいこんなもので、親の生きてきた世の中も、子どもたちが生きていく世の中も、だいたい同じようなもんだろう」と思ってました。

思ってたというか、ほぼ出来上がっているものと、なんの疑問も持ていなかったという感じです。

近年、変化のスピードがググッと加速しだしたとこで、ようやくハッとさせられました。

ずーっと変わり続けてるんだと。

振り返ってみるとなにかが起きる度「なんだコレ?」とか「おいおい」とか、首かしげたり鼻で笑ったりしてたことが(自分の中の常識と違うというだけの)勝手な違和感で、その違和感のひとつひとつが世の中の変化だったように思います。

そこで自分自身の常識を見直さないままでいると、どんどん生きづらくなっていくんだなと。

自分の常識を変えればいいとかでなく、変化する社会と照らし合わせた上で、認識する。

出来事を点で捉えずに線で捉えて、この先世の中が進んでいく方向をなんとなく感じておく。

なんなら必要な時だけでも、その線に近いところに自分を持っていける方がいい。

この線の変化に気づくことなく、(ガラスの)十代までに積み重ねた自分の常識だけを基準に、ずーっと生きていこうとすれば生きづらくなって当たり前。

そんなことを踏まえてもう一回振り返った時に(ダメージジーンズを履いた人を受付から見かけて)感じたのです。

 

世にダメージジーンズというアイテムが出現し、増殖して、一定の割合で生き残り、「ダメージ加工なるオシャレ」という常識として定着した事実を、単なるひとつの出来事でなく、世の中の変化と捉えることが必要だったんだなと。

私の感覚からすると、使い古してペッタンコになった学生カバンとか、手入れはされてるけど握る部分だけ色あせたおじいさんの杖とか、ステッカーがベタベタ貼ってある傷だらけのスーツケースとか、あくまでも使い込んだ過程があって、その結果醸し出される風合いみたいなものがカッコいいのであって、わざと破ったり、かすれた風の加工なんてものは、たとえそう見えたとしても、それが加工である事実がある時点でダサいという見解は、今も当時も変わらない。

そこで「ダサい」と切り捨てるのか、ただ「そういうもん」と認識するだけに留めるのか。

自分の常識に合わない感覚を、否定したり見下したりすることは、自分にとっても相手にとっても、誰にもなんのメリットもないことを理解できていれば、自ずと答えにたどり着く。

ただ、私はその先を見たい。

ここで止まってしまうと、リアクションとしては「無視」となり、人と人との間になんのコミュニケーションも生まれず、発展がない。

私は、見てみぬふりのくせにどうでもいい告げ口ばかりする現代社会が、精神衛生上とてもよくないと思ってる。

 

suzukiyasumu.hatenablog.com

 

まぁ、直接交わらなければ無視で全然いいのだが、ダメージジーニストと接する場合に、なにかしら(できるだけポジティブな)コミュニケーションをとれたら嬉しい。

アメリカ人とのパーティーの席で、ギターをかき鳴らしてWe Are The Worldあたりを歌ったりすると「ヘイ!キミのオリジナル曲を聴かせてくれよ」なんて言われるらしいけど、そういうの。

そんな、ダメージジーニストとのポジティブなコミュニケーション方法、誰か思いついたら教えて下さい。

それじゃ、おやすむ〜!