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【後編】BLOGOS「批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年」をいっぱい引用したい

さてとポテト、林やすむ[@hayashiyasumu]です。

ここ最近「もう木曜日か」と思うことが多い木曜日。

昨日の続き。

suzukiyasumu.hatenablog.com

一般的でない価値感を共有していたからこそのはてなダイアリー

今日もこの記事をいっぱい引用します。

lite.blogos.com

ブログの価値基準の話から、はてなダイアリーの話へ。

はてなダイアリーは、なぜだったかわからないですが、意見が違ってもみんな「はてな」に所属しているという独特の感じがありました。いまでも「はてな村」ってよく言いますけど、あれは別に蔑称で使うべきものではなくて、「俺たち同じ村に所属してるんだ」という感覚があったからこそ、実は議論もできていた。それがみんなバラバラにいて、みんなで爆弾を投げあうような感じになってしまうと、ただ相手を潰せばいいということになってしまう。

はてなダイアリーが無意識に持っていたあのコミュニティ感というものを、上手く次のサービスにバトンタッチできなかったのは、すごく残念なことだなと思っています。

私、はてなダイアリーはてなブログの明確な違いって気にしてなかったんですけど、その辺をザザッとググっとしてみて、なんとなく感じとりました。

はてなダイアリーは、他のいろんなブログサービスと同時期にスタートしてます。

できることとしては、どのサービスも(コマゴマあるでしょうが)大差はなく、一般的なくくりとしては、はてなダイアリーも「ブログサービス」という認識でいいと思います。

でも、他のほとんどが「○○ブログ」という名称の中「はてなダイアリー」。

まずこの辺ですでに、ユーザーからすると「私はブログなんていう、ポッと出の流行りモノ(になるかもしれないもの)でなくて、日記を書いてるんです」っていう、「はてなダイアリーである意味」が生まれてますよね。

で、日記であるからには、PVとかお金が価値基準にはならず、なんならはてなダイアリーの中で話題になることや、そこでのコミュニケーションも価値基準というワケではなく、とことんまで削ぎ落とせば「ただ書く、書き続けること」が自分にとっての価値になるだけ、みたいなね。

まぁ極論ですよ。

その辺の、一般的でない価値感を共有してるからこその「コミュニティ感」な気がします。

だからはてなダイアリーユーザーは、はてなブログに移行したがらないし、はてな運営も、はてなブログはてなダイアリーという、機能的には同じようなサービスを、つい最近まで並走させてきたと。

そんなふうに考えるとたしかに、「惜しいサービスを亡くしました」って気になります。

まぁでもそれも、大衆の求める価値の変化がそうさせたってのが真理かもしれません。

がしかしですね、はてなブログにもまだまだその名残はある感じがするんです。

ただ、それを意識してたり、はっきりそう感じてる人ってのは少ないでしょうし、この先どんどん少なくなるでしょう。

そういう下地のない、現状の多数派の人たちに「はてな独自の価値感」を感じてもらいやすい変革をしていくことは、はてなダイアリーはてなブログに統合させた、はてな運営の責務ではないかと、そんなことを思いました。

次。

ホリエモンの扱いにみる大衆の価値感の変化

やっぱり、お金以外の価値について。

お金ではない価値をどうやって今のネットとかメディアの環境の中で提供し続けるか。それこそが大事だと思います。

ところが、そこの部分をなぜかみな考えなくなってる。「儲かることが正しいこと」みたいに思ってる人たちが多いですね。

ライブドアが2000年代中盤くらいに勃興してきたときは、拝金主義はよくないということになっていました。ホリエモンなんかそれで叩かれていた。金ですべてが買えるってアホか、と。ところが、今は金ですべてが買えるって言うと、むしろ先進的だってことになっている。

今の世の中は、未来から振り返るとかなり変な時代に見えると思います。拝金主義がいい、新しい、みたいな雰囲気ですから。倫理的なことや正しいことを言うと、頭が固いことになる。

言われてみるとたしかに登場時は完全に、「お金でなんでも手に入ると思うなよホリエモン!」っていう空気だったのが、今や「前科者なのにその逆境をはね返して結局金儲けしてるっぽいからやっぱホリエモンが正義!」ってなってますもんね。

ホリエモンは多分たいして変わってないんですよ。

やりたいことをやるために、こうしたらお金が回るというのを理解してて、それのジャマにならない部分で言いたいこと言うみたいな。

大衆の捉え方が変化してるだけで、「拝金主義」というよりは、ホリエモンでも前澤社長でも、自由にやってるだけ(のように見える)なのに、お金儲けできてる、みたいな部分に大衆が妬んでるって感じがします。

SNSの弊害じゃないでしょうか。

スペシャルな人の別次元の話だったものが、「(フォローしてるだけで)ツイッターで私とつながってるあの人」になっちゃうっていう。

だからまぁ、拝金主義だったり、妬みだったり、自分にもできるかもっていうカン違いだったりが、複雑に絡み合ってる、歪んだ価値感の集合体だと思いますわ。

最後。

家族でなくても家族っぽい関係性がほしい

落としどころが、こういう話になるのもまた、なかなか味わい深いなと。

今は、会社もない、地域共同体も崩れている。かといって、急に国家とか言い出すのも飛躍がある。そのときに共同体の核というか、どこを足場にするかといったら、そういえば家族ってあるよねと。ほぼみんなに家族がいて、じゃあ家族ってなんだろうというのは、もう1回考え直すに値する。そして、現実にいまより柔軟な家族の形が必要とされている。

一昔前だと、たとえば団塊世代なんかがそうですが、一人であることが自由であることの条件だと考える人が多かった。それは世代のリアリティとしてあったと思いますが、一人であることは必ずしも自由を意味しなくて、むしろ一人であることによる弊害も今は見えている。そのときに、会社も信じられない、かといって地域も国家も信じられないとなってくると、家族くらいしか足場になるものがないだろうということですね。

家族という言い方をすると抵抗を感じるひとも多いし、それにもむろん理由があると思います。だから、僕がいま考えていることは、将来的にはもっと抽象化していきたいと思います。それを「家族的」と呼ばなくてもいい。

家族って別に何も理念とか趣味とか共有していない。それぞれ全然違う職業を持っていて、年代も違ってて、人生も違う。ただ家族だから、しょうがないからというのもあれだけど、いっしょにいる。定期的に集まる。

私の場合、二十代はだいたい一人で生きてたんですよ。

三十代の手前で(当たり前のようにではなく、本当に運よく)結婚して、家族を形成することとなったワケです。

一人もまずまず経験して、家族も経験して。

それで思うのは、「一人はしんどい」ってこと。

特にメンタルが。

落ちたらずっーと落ちてくし、自力じゃ立て直せないし、ただしんどくなくなるのを待って、動けそうになったら動く、みたいなのの繰り返しで。

とにかくムダが多いんですわ。

記事でもいってますけど、家族である必要もないんですよ。

最低限の価値感の一致、いや、一致でなく許容ってぐらいでもいい、そんなんがあって、なるべく近い場所にいて、継続的な関係でいられる人が一人いるかどうかでまったくちがうと思う。

べつに、運命的な相手とかでもなく。

家族になろうよ」でなくて「孤独対策」ですよ。

これからの人は特に、ホント意識して生活しといた方がいいんだろうなぁなんて。

大〜きくまとめると「お金や数字以外の価値」と「家族っぽい関係性」

大〜きくまとめると、これからの時代のテーマがふたつあるんではないかと思うの。

「お金や数字以外の価値」と「家族っぽい関係性」。

このふたつの「概念」を、常識化することではないでしょうか。

まずそれができないと、社会が変わっていかないかなと。

ハイ、こんなところです!

じゃ、おやすむ〜!!