過去記事が読まれないのは「今の価値」と「自薦」にある
どうも、林やすむ[@hayashiyasumu]です。
またやってきた月曜日。
さて。
- オジさんになると「過去記事を読んでくれ!」という欲求がなくなってくる
- なぜ「過去記事」になったとたんに価値が下がる(ように感じる)のか?
- 自薦を受け入れない心理ってなんなんだろうか
- 過去記事は読んでもらえないものと思う
- 結局自分で決めたい
オジさんになると「過去記事を読んでくれ!」という欲求がなくなってくる
なんとなく思ってたこととリンクした記事。
「読んでほしい!」ってより、なぜ「過去記事」になると読まないし読まれないのか。
個人的には、もはや「オレのこの記事読んでくれよ!」的な欲求(いわゆるひとつの自己顕示欲)、そして「面白いって言ってくれよ!」的な欲求(いわゆるふたつの承認欲求)は、いい具合にしぼんでいる。
自分の感情の大半は、どっかの誰かの受け売りであること、他人の感情は動かそうとして動かせるものではないことに気がついたからかもしれない。
(※「どっかの誰かの受け売り」だからダメってことではなく、「それほどのモンでもないから(肩ポンポン)」って自分に言い聞かせられるみたいなね。)
と、このように、「いいことを言いたい欲求」は、まだポッコリとした膨らみを保っているようだ。
まぁとにかく全部ひっくるめてしまうと、おっさんの「枯れ」の副作用なんだと思う。
なぜ「過去記事」になったとたんに価値が下がる(ように感じる)のか?
ひとしきりいいことも言えたので、話を戻そう。
なのでね、「過去記事読んでくれよ(ムキーッ)!」ってなことでなく、なぜ「過去記事」になったとたんに価値が下がる(ように感じる)のか?を考えたい。
(※なお、この記事はSEO対策とかキーワードとか、はたまた実際読まれてるかどうかさえもあまり関係なく、ただ「過去記事になったとたんに価値が下がる(ように感じる)のはなぜか?」だけの話で、よって、下の方の「こうすればいいのでは?」ってのも「心理的に読まれやすくするには」っていうベクトルだけの話であることをご了承願う)
パッと思い当たるのは「今ある情報で手一杯」であること。
内容どうこうの前に、今を片づけることの方を優先してしまうのだ。
ツイッターなどSNSのスタートページが、常に「今」であるように、複雑に入り組んだ現代社会でも、シンプルに「今」であることの価値は高い。
そして、そんな現代社会の対抗措置ともいえる「マインドフルネス」でもまた、「今、ここ」といって、心(思考)と体(現実)を「今」に置くことが重要とされるのは、どんな解釈ができるだろう。
(※ちょい前にマインドフルネスの本を2冊ほど読んだだけで、「ここでこんなん入れたらもっともらしくなる!」と思って入れてみたまでであり、考察はまったくない。)
つまり、(より本質的であるはずの)内容の価値判断より先に、「今」であるかどうかという、それこそ今すぐできる本質のない価値判断を無意識に選択してしまっているのだろう。
情報があふれ、時間の価値が高まったことで、「今すぐ判断できることの価値」が高まったとも言えるかもしれない。
ややこしいわ。
自薦を受け入れない心理ってなんなんだろうか
もうひとつ、過去記事が読まれない理由らしきものがある。
「自薦」を受け入れない心理だ。
「今日公開する記事」は、「今」書いた記事としてすんなり受け入れられるのに対して、過去記事は「過去に自分が書いた中のお薦め記事」となって、なぜだかすんなり受け入れられない。
その人のブログが面白いことを分かっていたとしても、自薦となるとなぜかすんなり受け入れない。
私自身も、他者の自薦をすんなり受け入れられない感覚はあるが、なぜだかよく分からない。
分からないなりにちょっと考えてみた。
アーティストのベストアルバム。
これも同じような構図ではないだろうか。
自分の好きなアーティストが、「この曲がベストだよ!」って言ってるのに「なんでこんな曲が入っててあの曲が入ってないの!?」なんて当たり前に思う。
好きなアーティストであっても、自薦となれば突っぱねるのである。
まぁこの場合、金払ってるとか、アーティストの意志が反映されていないケースがあることも織り込み済みだったりするので、まったく同じではないが。
過去記事は読んでもらえないものと思う
せめて一応、どうすればいいのかまで駆け足で書いておきたい。
その記事が、オピニオン的な自分の思考を中心に書いたものであれば、もう一度同じテーマで、今の自分の思考として新たに書く。
そんで、前はこれほど愚かな考えだった的に、内部リンクをはる。
過去記事があるなんてことは言わなければ誰も気づかない。
体験記みたいなものの場合、その体験による「価値ある今」を、これまた新たに書き、その記事に内部リンクとしてはる。
過去記事が読まれる読まれないにかかわらず、読んでもらうためにはもうひと記事書くしかないと思う。
結局自分で決めたい
結局「自分で決めたい」ってことなのだろう。
人間ってのは自分本位な生き物である。
ってゆーか、今日はサラッと済ませようと思っていたのに、なんだかいろいろ考えてくたびれた。
あと気になっているのは、「今」に追われて生きる大衆に、どんな未来が待ち受けているのか。
ま、そこまでは考えなくていいや。
なお、どれも面白そうだなと思いながら、実は冒頭のリンク先の過去記事をまだひとつも読んでいないことを、最後にわざわざお知らせしておく。
いや読みますから、ホントに、明日。明日ね。
じゃ、おやすむ〜!!