私の体調

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過去記事の話の続きと「錦織(にしこり)問題に関する提言」

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5年ぐらい前に立石フェスタに降臨した錦織圭(ではなく「キャベツ確認中」のしまぞうZ氏)と娘

どうも、林やすむ[@hayashiyasumu]です。

火曜日。

さて。

読んだ人の反応で気づかされる自分の視野の狭さ

昨日の記事のつづき。

suzukiyasumu.hatenablog.com
いやね、なんか大事なことを言い忘れてた気がして。

あくまでも「過去記事になったとたんに価値が下がった気がするのはなぜだろうか」ってことだけの話で、キーワードとかSEOとか、なんなら実際読まれてるかどうかさえもまったく考慮してない話でした。

なんかこういうのも、読んだ人から反応がもらえて自分の視野の狭さに気づかされる感じで、「ええやん(テヘペロ。オジさんの)」ってなります。

あともう一個、「だである調」で、言ってることにスキがあるとよりマヌケだってこと。

なんか、テキトーに書き出して、書き出しが「だである調」になってると、じゃ、「だである」でいこう。

ってな感じで続けちゃうんです。

でも、だである調で全部通そうとするとなんかしんどくなってくるっていうか。

なのでまぁ、「ですます調・だである混じり」ぐらいがちょうどいいんですよ私は。

「文章の書き方」的な本には、統一すべし!って書いてるでしょうけどね。

あと「他者の反応によって」って話でもう一個。

高校生の時に国語の先生に教わったこと - ぐわぐわ団

「なにが美人でなにがブスか」は変わっていくのに、「美人を尊びブスを蔑む心」が変わらないのはなぜだろうか・・・(という無責任な投げかけ)。

2019/04/15 05:00

b.hatena.ne.jp

コレに、わざわざ次の記事内でていねいなアンサー的なものを頂きまして。

www.gw2.biz

私けっこう「ブコメは(迷惑かけない程度に)勢い」をモットーにしてて、フワッと感じたことでも投げちゃうんです。

投げられた方からすると「あさっての方向」な場合も多々あるかもしれませんがお許し下さい。。

これの場合、自分が思ってたことの「芯」に自分で気づかないままコメント入れてて、アンサーを頂いたことでそれに気づかされたワケです。

要は、時代によってなにが「美人」でなにが「ブス」かが変わるなら、その価値基準自体が多様化して、比較して優劣つけるものでなく、人それぞれの「好み」という概念しかなくなるってなことにはならないもんですかねぇ、みたいなことです。

記事を「作品(表現)」と捉えるか「日記(記録)」と捉えるか

それからそれから、「過去記事読んでほしい」って想いのあるなしで思ったのは、書いた本人の記事に対する捉え方なのかなとか。

べつにどっちがいい悪いでなく、自分の記事を「作品(表現)」と捉えてるか「日記(記録)」と捉えてるかってとこで、作品って想いが強いほど「これ読んで!」ってなるんではないかなと。

いやね、私自身が、(このはてなブログよりも前)ブログってものに触れて以降ずっと、基本的に記事を作品という感覚で捉える気持ちが強かったんです。

で、そうなると、(自分の思う)完璧な形になるまで際限なく修正を繰り返したり、労力かけてる分だけ反応を求めたり、反応があっても自分の望むものやそれを上回るものでないと満足できなかったり、ロクなことがないんですわ。

実際、反応らしい反応もなかったですしね。

そんなんを経て、このブログを書き出して、はじめのうちはそれまでと同じ感覚でいたんですけど、ある時ふと、ホントにふと思ったんです。

こんなにふと思ったことないぐらいに、ふと。

suzukiyasumu.hatenablog.com

そっからですね、それまでは「ブログの毎日更新」なんてものは血の滲む努力であって、自分には不可能なことだったんですけど、とりあえず日記でよけりゃいくらでも書けるなって(時間なり環境が整わないとなるとまた違ってきますが)。

そこからは、(よくも悪くも)変わらぬまま日記感覚で書き続けてる感じ。

完全に私個人のケースとしてですけど、記事を作品と捉えることは、足かせをはめられながら書くようなものでした。

(※現実的には、記事を書く時に足かせをはめられていても、おしっこに行く時が大変なぐらいで、書くことに支障はない。)

「錦織(にしこり)問題に関する提言」全文

そんな、足かせをはめられながら書いた、私の「過去記事(作品)」を晒しておしまいにします。

錦織圭が活躍し始めた頃にしたためたものですが、錦織圭同様今も色あせず、控えめにいって一箇所ぐらいは愛想笑いしてもらえる「自薦足かせ作品」です。

なんとなく雑に読み進めてきた方、ぜひゆったりと、絵画を鑑賞するような心持ちでご拝読頂けたらなによりです。

錦織(にしこり)問題に関する提言


我々ニッキ(少年隊の錦織一清)世代がこの「にしこり問題」に抱く感情を偽ることなく綴ろうと思う。

錦織圭(にしこり・けい)選手が登場してからというもの、にわかに世間を浮足立たせ続けている問題。

なぜ今ここにきて、“にしきおり”でなく、“にしこり”なのか。

それがそう、「にしこり問題」である。

違和感を感じ続けながらも、それを拭いきれないまま、否、拭おうとしないまま日々の生活に忙殺され、この問題を手付かずにしてしまった我々の責任は重い。

結果、ここにきてのにしこりフィーバーである。にしこりの成長の早さは我々ニッキ世代の想像をはるかに超えていた。


エアケイ。

とある知恵袋によれば、にしこりが放つ、滞空時間の長いフォアハンドのジャックナイフショットのことである。

今思えば、エアケイで世間がにしこりの名を認知し始めたあの頃が、我々にとってのラストチャンスだったような気がする。

今、

にしこりがエアケイを決める度に、我々の居場所がなくなっていくような、そんな寂しさがある。にしこりが世界で活躍することへの喜びとは裏腹なこの寂しさ。

にしこりに罪はない。それは我々も解っている。

初めてにしこりの名を耳にした時、

「え?にしこり?にしきおりの“きお”を略して“こ”にしちゃったの?!」

と、“にしこり”という響きになんとなく漂うコミカルさも相まって、半笑いでひとりテレビに向かってツッコんだ、あの時の自分の様を今も忘れない。

“にしきおり”という、絶対神が存在した上での半笑いである。


そんな私が、こうして笑われる側の人間になることを、私はもちろん、当のにしこりも予想だにしなかったであろう。

ただ、当時から“にしこり”と読むことへの違和感を表明するというムーブメントは、少なくとも私のまわりには存在しなかったことも事実で、そんな世間に対し、違和感に違和感を重ねた夜もあった。

私は、にしこりの人柄も知らずに、こうも思った。
長い外国生活から身に付けてしまった、はき違えたオリジナリティーにより、I am(アイアム)をI'm(アイム)と略す感覚で、元々にしきおりだったものをにしこりと自発的に言い始めただけで、本名はにしきおりのままに違いない。

 

本名、錦織圭(にしこり・けい)。私の思いはあっさりと外れた。


さて、“にしきおり”か“にしこり”の二者択一と思われたこのにしこり問題だが、とある知恵袋の回答によると、その二つの他に、「にしきお」「にしおり」「にしごり」「にしこおり」などの読みも存在するらしいのだ。

それぞれについて、言いたいことは山ほどあるが、今はその時ではない。この、とある知恵袋の回答から読み取るに、にしこりも含め、「にしこおり」以外全てにおいて、できることならひと文字でも短く済ませたい感ありありなのである。

私は、大きなヒントを得たこの回答をベストアンサーに選び、お礼にコインを30枚あげた。


いよいよである。錦織圭の台頭で本格化したにしこり問題に、今ここで終止符を打つ。

さあ、これで終わりだ。


「錦織」の読みは、全て「ニッキ」とする。

以上。


バイナラーッ!!

 

こんな感じのが、あと5個ぐらいあります。
じゃ、おやすむ〜!!