消毒ババア警察に取り締まられた件
ふと気がつくと、受付の前の道路のジャマな位置に自転車が停められている。
通行の妨げにならぬよう、私は自転車を端に寄せた。
ほどなくして自転車の持ち主らしき老婆が現れ、自転車が移動されていることに気がつく。
ガラス越しに目が合い、私は「すいませんけど動かしましたよ~」というメッセージを込めて、やわらかな会釈をした。
老婆は私のやわらかな会釈を弾き返すかのような硬い表情のまま、無言で受付の入口に置いてある消毒液をポンプごと持ち出し、(私が触れているであろう)自転車のハンドル、サドル、荷台に次々と消毒液を吹きかけたのである。
ボトルを戻し、立ち尽くす私に視線を向けることもなく老婆は去っていった。
老婆からすれば、私は新型コロナウィルス同然なのである。
同然っつーより、老婆にとって「他人はコロナウィルス」なのだ。
そう、これがコロナ禍で手に入れた人間同士の新しいコミュニケーションの形。
有無を言わさず殺される、目に見えない微生物たちの気持ちがよく分かった。
微生物に気持ちはないって?
「生きたい」という本能ぐらいは理解できる同じ「生き物」でありたい。
老婆に対して怒りも哀しみもなく、あるのは、そういうヤツを生で見られたというちょっとしたオモシロと憐れみである。
大衆の多くは、未だに消毒・マスクに意味がないどころか、長期的に見たら相当に有害であろうことを受け入れられない。
知らないわけでなく、自分のやってきたこと、信じていることを咎められるのが我慢ならないのである。
もはやこのコロナ禍が「事実」によって収まることはないだろう。
まして、事実が一体どこにあるのか、どうやら誰にも分からない。
となれば、ウソでもごまかしでもいい、求めるのはただの「安心」だ。
その逆に「不安」をあおる仕組みをフル回転させるこの社会に、疑問を感じているのは私だけではないだろう。
人類総出の茶番劇に付き合わされるのもまた、我々大衆なのである。
今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」