さてとポテト、林やすむ[@hayashiyasumu]です。
水曜日。
泉沢さんの記事で、ヴィレッジヴァンガードお茶の水店の閉店を知りました。
20数年前、神保町の古本屋を巡っては「黒木香のワキ毛ステッカー」などのお宝バカグッズを漁り歩いていた頃に、その近くの路地の親子でやってた廃れ気味のやけにお茶のおいしいとんかつ屋でランチをしたあとたまたま入ったのが、ヴィレッジヴァンガードお茶の水店。
ちょっとした嬉しさとちょっとしたヤラれた感みたいなものを感じた記憶はあるが、あくまでも私個人の当時の境遇からすると、出会いのタイミングが少し遅かった。
そういうのにワクワクする時期をちょっと過ぎてしまった頃で、まぁ好きなお店ではあったが、さほど思い入れはなく、なんとなくちょっと妬んだ視線で、そこで働く変人(と思われたい)風雇われ店長や、そんな客をじっとり眺めていたぐらいだ。
本来そういう店は、自分のことを変人とも思っていない真の変人店長が自分の信じる「よさ」を、そいつのさじ加減で表現しつつ一人で切り盛りしてこそ、似たような変人感覚の客が集まって面白い店になるもんだろ、なんて思いながら。
あなんか、思い出語りになりかけてますね。
やめましょう。
私が言いたいのはね、ビレバンみたいな店をビジネスとして成り立たせちゃったとこが、もうゴールでありピークっつーかね。
私のように、「二輪教習中の稲葉さんの下敷き」をいつか出番がくるはずと宝もののように保管している人間からするとやっぱりヤワっつーか、まぁ必然でしょうけど大衆向けなんですね。
当たり前のモノの中から異質なモノを見つけるからこそ面白いのであって、異質なモノが寄せ集められてちゃたいして面白くないんですよ。
でも、「あ、大衆がこういうものを面白がる時代になってきたのか」みたいなことは当時思って、嬉しい方の世の中の変化な気がしてたんです。
まぁ、私のビレバン観が最初から私の都合のいい方にズレているような気もしますけど。
で店舗がどんどん増えるにつれ、私の中での存在感はどんどん薄くなってって、現状特にどうという対象でもなかったんですけど、ついこないだレイクタウンかなんかにあった店舗をちょっと覗いたら、(泉沢記事でも書いてた感じで)まー深刻につまらんのですわ。
場所柄そんな商品展開にするしかないのかなと思ってたんですけど、今回のお茶の水店閉店で確信しましたね。
人類の退化を。
いや最近私の中で、空前の「退化」ブームなんですよね。
ここんとこあらゆるモノゴトをなんでもかんでも人類の退化と結びつけちゃうんですわ、私。
ビレバンのせいじゃないし、ビレバン的には戻そうと思えば戻せるし、本当は戻したいんですよ。
ただ、ビジネスとしてはそうするしかない(大衆の求めるモノを並べる)ってことになるんですよね。
人類の退化により、ビレバンがビレバンのままでいることが許されない時代になったっつーことですよ。
まだ言いますけど、これもこないだのGoogle記事と同じなんですって。
企業が利益のために大衆に寄り添っちゃマズいんですよ。
大衆がどんどんバカになって、世の中全体が「バカに合わせた社会」になっちゃうの。
この先の、便利(ラク)とか分かりやすさとかって、慎重に受け入れないとホントにただ人間として劣化させられていきますから。
肉体的にも感覚的にも。
ちょっと思いついたので書くだけ書いときますけど、芸術家なんかでも、岡本太郎とか横尾忠則とか(草間彌生もいれときましょうか)みたいな、作品的にもキャラ的にもガツンとくるような若い芸術家が出てこないのも、なんか似たような要因を感じません?(※ふんわり思っただけでアートとかなんも知らずに言ってることですハイ)
「ほとばしるパッション」的なものが削がれちゃってる世の中みたいな。
エネルギーが枯渇してる。
ツイッターには(いい意味で)変な人いっぱいいますけど、現実社会では結局部屋の中にいる人ばっかなんだろうなとか。
こういうのも格差なんですよ。
当人にそんな意識なくたって、収まるとこに収まるしかないっつーかね。
大衆の立場に身を置く限りは、一部の「社会をコントロールできうる立場の人」にどうにでもされちゃう。
なんだかねぇ。。
そんな世の中で中途半端にここまで生かされてきちゃった身としては、今からでもなるべく無関係で生きるように努めるぐらいしかできませんけども。
まぁそんなとこで。
じゃ、おやすむ~!!