銀杏もぐら記事を言いわけし尽くす ~「OBH(おもブロハンター)YASUMU」として~
どうも、林やすむ[@hayashiyasumu]です。
土曜の朝5時。
さて。
- 自由ネコイジりへのアンサー言いわけ
- ありのままの自分でありたいという壮大な方の言いわけ
- 峯田氏ともぐら氏への想いはぬるいけど聴いてほしいという想いはそれなりに熱い
- 貫く鈴木もぐらと貫かない鈴木(旧姓)やすむ
自由ネコイジりへのアンサー言いわけ
イジられてました。
私はこういう「想い」に応えたいタイプなので、子どもが起きてくるまではしっかり受け止めてみようと思います。
おとといの冒頭での「言いわけはしない」が、意図せずフリになりましたが、すげー言いわけしたいので言いわけします。
ありのままの自分でありたいという壮大な方の言いわけ
まず、壮大な言いわけとしては「ありのままの自分でありたい」ということが言えます。
これはまぁ、記事のボリュームとか、浅さ深さ、読む人への配慮などなど、全体的な部分で「背伸びはしないけどノビはする等身大のオジさん」でありたいということです。
この壮大な言いわけを、イジられ対象となった「ぬるくて浅い方の銀杏もぐら記事」で当てはめてみましょう。
記事の中で意図するものとして、タレントだったり対象がはっきりしているものを書く時は、読んだ人がその対象に興味を持ってくれたら嬉しいなって気持ちが一番に立ちます。
意図するものと書きましたが、湧き上がる気持ちです。
等身大です。
すると、自分にどう響いたかってのは、最低限でいいかなってなります。
「自分もなんとなくこじらせてて染みるわ」ぐらいに。
そうすることで、読んだ人は「本人のソレ」を自動的に当てはめるというか。
私の体験や想いを具体的に話して私の思い出が混ざるよりも、スーッと対象だけを自分の中に溶かしていけるというか。
やっぱり混ぜて溶かす仕事が好きなのかもしれません。
峯田氏ともぐら氏への想いはぬるいけど聴いてほしいという想いはそれなりに熱い
そして次。
実はコレ、記事にするかしないかってとこで一番迷った部分。
私、銀杏BOYZ素通りしてるんです。
するとまず、銀杏BOYZ峯田さんへの想いはゼロ。
空気階段にしても、もちろん面白いと思うし好きですけど、この情報化社会での子持ちアラフォーともなると、芸人とかタレントとか追ったりするのもうムリでして、とにかく「踊り場」を聴いているというだけなのです。
そんな状況で、ムリクリ調べたことを並べただけの記事書いてもなってことです。
等身大。
だからとにかく、「このラジオ聴いてみ!」のためだけというか。
ちょっとせっかくなんで、ここから少し幅とらせてもらいましょうか。
今回知ったことなんですけど、私この銀杏BOYZの峯田さんと同い年なんですわ。
するってえと、もうブルーハーツなんです。
イジり記事のリンクの「熱くて深い方の銀杏もぐら記事」の中で、峯田さんがダウンタウンに言ってたコレ。
僕の中にあるんですよ、二人が。いるんですよ二人が。
鈴木もぐらの恋は永遠、愛はひとつ。『空気階段の踊り場』「駆け抜けてもぐら」感想。 - 石をつかんで潜め(Nip the Buds)
アラフォー世代の男の中には、ダウンタウンがいるもんなんです。
だからもう、銀杏BOYZ聴いてウンウンってより、心の肩組んじゃってるっていうかね、峯田ッチと。
ブルーハーツを聴いて育った世代が銀杏BOYZ聴くと「ブルーハーツやん」ってなります。
これ多分、本人たちもべつに気にしてないというか、「そりゃそうなるっしょ?」ぐらいのノリだと思います。
なんかだから、そういうので思うことは、「世代」ってイイやん。ってこと。
本質的には同じことでも、世代が違えば感じ取ることが違ってて、そこから生み出されるものがまた違うものになるっつーかね。
話を戻しましょう。
貫く鈴木もぐらと貫かない鈴木(旧姓)やすむ
鈴木もぐらは、(峯田氏との関係を自分から公にすることなく)クズの美学貫いてたけど、鈴木(旧姓)やすむは(自由ネコさんに誉められたことを一週間かけてしゃぶり尽くしてて)真逆ってとこですね。
見事なまでの、エグりイジり。
これ私が枯れかけのオジさんでなければ、病んでブログ書けなくなるぐらいのエグりイジり方ですから。
これはね、まぁその通りです。
自虐として「私と真逆ですね」って一行と自由ネコさんの記事リンクをはっとくかなとも思ったんですが、ネコさんの顔が浮かんで「さらにもう一回しゃぶる」のを避けたのと、ただ単にそれを忘れたというふたつの複合的な理由からです。
えー、今この記事は子どもが起きてくる前の早朝3:30に起きて書いてます。
ちなみにもう起きてきてるので、そろそろ締めます。
多分今回のも、コレだけではしゃぶり足りない気がするので、また明日しゃぶります。
じゃ、おやすむ~!!