「知らない幸せ」と「知ることの不幸せ」
さてとポテト。
最近つくづく感じるんですわ。
ホントっぽいことを知れば知るほど「楽しくなくなる」って。
前の前の記事でもちょっと書きましたけど、私の場合は、十数年ほど前に「健康」とか「生きづらさ」とか、それから「子育て」とか、その辺をアレコレ調べ出したのが、思えば能動的に知識を得ようとすることの始まりでしたか。
でまぁ、始めのうちは知り得た知識や理解を元に、なんだかんだよくなっていく実感もあって、「知らなきゃ損やん!」みたいな感覚だけだった気がします。
あとから思い返してみて、なんとな~く次第に変わっていったのは、「周囲との認識のズレ」みたいなものかなと思うんですけど、なんかそんな「その時はソレと気づいていない違和感」を積み重ねていったことによるのかもなと。
それもまぁ確定的なワケでもないけど。
知識を得て理解を深めていく自分がいて、ネット上には私が今知ったばかりのことを当たり前のように理解している人、さらにその先の、私には今後も到底理解不能なことを(おそらく )理路整然と書き連ねてるような人がいて、反面実際に眺める世の中は、そんなことを考えてなさそうな人がほとんどに見える。
この辺の、現実どれも人間の様なんだけど、インターネットがなければそこまではっきり意識させられなかったはずの、姿のない無数の明確な思考や感情までもが、どんどん自分の頭の中に押し入ってくるというか。
テレビの中だけにいたスターやスペシャルなポテンシャルの持ち主が、ウチの近所や、はたまたどことも分からないへんぴな田舎町なんかにもそこかしこにいるんだろうなっていう、当たり前といえば当たり前な(認識する必要のない)現実を意識させられる。
(※ちょっと追記。スゴい人とかもそうだけど、初めの頃は、「そうそうその感じ!!」っていう「同志」を見つけた嬉しさが勝ってたような)
人間という動物のキャパは、家族、親戚、友達、職場、生身の自分の行動範囲程度なんだろうと思う。
脳みその無意識用のスペースがパンパン。
ただ「情報を知る」ってだけでなくて、その情報を他者がどう捉えているかまで過度に意識させられちゃう感じとか。
あと、知りたいことを知ろうとすると、知らなくていいことも一緒に知っちゃうってのもある。
例えば銀歯のアマルガムの話。
銀歯にどんな悪影響があるのか、それを回避する方法はあるのかを知れればそれでいいところに、政治的な思惑でアマルガムが保険適用され続ける事情みたいなことまで知る。
そんなんをコマゴマとでも積み重ねてくと、どんなカテゴリーでも起こってることは同じで、正義や事実よりも、お金や権力がモノを言うのが人類の本質なんだなってのが実感として染み込んでいく。
それでもまだ、たまにそんなニュースを見たところで、あくまで他人事だったの。
個人的には、現実問題として裏でなにがあっても、最低限大衆の利益に貢献してくれていれば「まぁしゃあないか」ぐらいな捉え方でいるつもりだが、コロナ禍はその限度をズカッと超えてきた。
もはや利益のありなしどころか、不利益をこうむりながらでも「旧来からの正しいとされるもの」を疑うことなく従うのが大衆であることが、悲しいかな私の中の常識になりつつある。
かんたんな話、今まさに「大衆のバカさ加減」があからさまに試されていることにも気づかない。
二重マスクでストッキングかぶってろよ。
いやゴメン。
大衆同士で罵りあってちゃ誰かの思うツボや。
さぁやっとこさココまできた。
ココな。
知らない、気づかない、疑問を感じないってことに対して、なんだかんだネガティブな感情が湧いてしまうのは、知ってしまったからに他ならないワケ。
知らなきゃ感じようもないんだから。
知らなければ、そこに関するストレスが一切ない。
もちろん、マスクや消毒の実害や、制限のある生活の影響は、遅れて必ずやってくる。
が、遅れてくるからそれがコロナ禍によるものとは、これまた気づかない。
ってな感じで、なにがあろうとも知らなければ、知ってしまったが故のストレスとは一切無縁ってこと。
そして、知ってしまった方は、一度知ってしまったら、知らなかった自分には戻れないのである。
これがなかなかの悲劇なワケや。
「アレを食べればこんなリスクがある」とか、「今この時が楽しくても問題はなにも解決していない」とか、なんにせよ手放しで楽しめなくなる。
知ってしまった今、どちらがいいかと問われれば、、ぜひとも戻りたいわ。
余計なことなんか知らずに、目の前の楽しいことに夢中になりたい!
なーんて、楽しくもないアレコレを考えながら「しあわせムズいな!」って、学くんの頭を思いっきり引っぱたきたい今日この頃の私なのである。
最後に、夢の登場人物がマスクを着用しだしたことをお知らせしておく。
なんか、もはや病気感漂ってきたな自分。。
じゃ、おやすむ~ッ!!