「リスク」と「対策」のバランス。「感染=死」のビビり方になってるから【新型コロナウイルス】
シンプルになにが問題なのかなと考えると、「リスク」と「対策」のバランスに行き着いた。
多くの人が恐れているのは「死ぬこと(&重症化)」。
(それこそ『必死』に)避けているのは「感染」。
気にする数字は「感染者数」(率でなく数なのも問題だがひとまず置いとく)。
このズレが、社会全体のズレになっている。
「 感染しないための感染対策」というより、「死なないための感染対策」になっているということ。
「感染」と「死」がごっちゃになって、ごくわずかなリスクに膨大な対策をしてる。
まずは「感染」=「死」ではないことを冷静に見極めよう。
はじめのうち、それこそ志村けんが死んじゃったり、「死」の近さを実感させられたが、それから最近までどんなもんだろう。
日本国内の累計死者数が、ザックリ1000人。
この死者数のみが、不確定要素の少ない、そこそこ現実に近い数字です(死因をコロナにするかどうかってとこでコントロールできちゃいますが。。多くの数字が「感染者数」というさらに当てにならない数字を元にしてしまっていることが今につながってる。不確定要素だらけの「検査」が含まれる数字などは特に混乱の元というか)。
死者数を確率にすると、だいたい0.0008%
これだけ並んでれば、ゼロ1個ぐらい多くても少なくてもいいか。
合ってますかね?1億2000万人のうちの1000人。
12万人に1人!ですか??
(※感染率とか重症化率なんかも気にしときたくなりますが、一個前のカッコ内でも言ったように、検査そのものの精度とか、現状検査できるってことは「感染の疑いが濃い」ことが前提であって、日本の全国民の「確率」として相当な誤差のある偏ったサンプルになるので省きます)
社会全体で恐れているコロナによる死の確率は、「0.0008%」で、「12万人に1人」に起こることですから。
雰囲気で勝手に「感染」を「死」につなげないこと。
隙あらば、「感染者数」=「死者数」の勢いでビクビクしちゃう。
そういう本能的な心理に気づくことが重要っつーか。
都市部にいればリスクは上がるにせよ、近所にあれだけお年寄りとか、バリバリに不健康そうな人とか(偏見)がウロウロしてる中で、果たして私やあなたが「ニッポンの12万人に1人」の選ばれし者になれますかね?
学年代表にも選ばれないのに。
にしてもずーっと疑問なんだが、毎日毎日母数の違う実数の増減でアタフタしてるってなんなの。
んで、実際その「雰囲気」で社会の動きが変わっちゃうんだから。
そういうの分ってるくせにニュースでは「感染『数』増えた減った」ばかり。
ますますこういう心配が増しますね。
なんならセルフ引用しましょう。
そんな私がここんとこニョキニョキと不安を感じるのが、このまま行くとこの社会は、バカをだましごまかし、バカのゴキゲンをとり、バカの支持を得て、バカ最優先の仕組みを作り上げ、バカを心の中でバカにしながら寄り添い、最終的に爆発するのではないだろうかということ。
さ。
シンプルに知りたいのって、「自分がどれぐらいの確率でコロナで死ぬのか」なんでしょ?多分。
さっきのこれですよね。
0.0008%。
12万人に1人。
ちなみに交通事故で死ぬ確率。
近年の交通事故死者数は毎年だいたい4000人です。人口を1億2000万人とすると、交通事故死の確率はおよそ3万分の1。【「宝くじ1等6億円」確実に当選する方法 「1ユニット」を買い占めればいい | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) 】
3万分の1ってのは、Yahoo!知恵袋によると、0.00333%、だと思います。
3万分の1は何パーセントになりますか? - 0.00333%だと思います… - Yahoo!知恵袋
数字が増えすぎると私の頭が混乱するので、まぁだいたいで、0.003%、だと思いましょう。
引用通り、3万人に1人。
まさにケタ違いの確率で、コロナ死よりも多い。
そしたら、コロナ死の数字をザックリこの半年の累計として、交通事故死数も半分にして半年の数字としましょう、ザックリ。
すると、コロナ死1000人、交通事故死2000人。
交通事故死の半分。
コロナよりはるかに高確率の交通事故死をしないためにやってることって、「信号守って左右を見る」ぐらい。
私ぐらいになると、信号を守らないことだってある。
交通事故死よりはるかに低確率のコロナ死しないためにやってることは、マスク、消毒、外出自粛、ソーシャルディスタンス、リモートワーク、公園図書館プールなど公共施設の閉鎖や利用制限、店舗の営業自粛、入場制限、アクリル板、自粛警察、マスク警察などなど、その他挙げようにも挙げきれないほどの(要請されたり勝手に誰かが作ったりする)これまでにない制約の数々。
そのストレスによる死の確率の方が少なくともコロナ死の確率より高いでしょ。数字にならんけど。
いやホント、冷静に考えましょうよ。
0.0008%のためにやることですか?
でそこで、「いやそれは死の確率だから」とか思っちゃうんでしょ?
それですよ、「感染」は「感染」なので、「死の不安」を「感染」に乗っけないの。
感染対策してない人なんてのも山ほどいて、そんな中で0.0008%の確率でしか死なない。
0.003%の交通事故は額面通り他人事なのに、それよりはるかに低い0.0008%のコロナはなぜか自分事。
「交通事故で死にたくないからずっと家にいる」のは異常だけど、「コロナで死にたくないからずっと家にいる」のは正常。
ふ~ん・・・。
さ、こんなところにしときましょうか。
マスク探してるヒマあったら、「みんなやってるから」で今の生活を続ける必要があるかないかをとにかく自分で調べて、自分で考えて、自分なりに行動に移す方が健全だなと、私は思います。
▼「みんなやってるから」の末路な!
ってなんかホント、(日本国内への影響だけでいいから)絶大な影響力を持つ人がシンプルに冷静に、大衆によい方向の影響を与えるような発信をしてほしい。
以上、ウィルス、いや細菌、、でなくて最近コロナに思うことの頭の整理&吐き出しでした~!
※なお、高校中退のビルの受付係が苦手な「数字」を中心にこしらえた記事となりますよってに、なにかしら重大な間違いが見落とされている可能性があります。要するに言いたいのは「ビビりすぎだろ」ってことですので、その辺はやさしく流して下さるとありがたいです。
ではでは、「国際医療福祉大学の高橋泰教授によるとっても冷静な見解」の記事をはりつけておしまいにします。
日本は強力なロックダウンを実施しておらず、新型コロナに暴露した人が欧米より極端に少ないとは考えにくい。むしろ先に述べた「これまで多くの人が新型コロナにすでに感染しているが、自然免疫でほとんどの人が治っている」という仮説に立って、抗体ができる前に治っているので、抗体陽性者が少ないと考えるほうが自然であろう。【新型コロナ、日本で重症化率・死亡率が低いワケ-高橋泰教授が「感染7段階モデル」で見える化】
きっと私も感染者ですし。
急性腰痛と「唾が飲み込みづらい」のは多分新型コロナの症状
いやね、5日ぐらい前から、きっかけもなんもなく急に腰が痛くなったんですよ。
普段の坐骨神経痛の鈍い感じのしびれとか痛みでなく。
「イタタタタ」って言いながらじゃないと動けない感じ。
今までなったことのないごく普通っぽい腰痛。
よく分かんないかもしれませんけど、やっかいじゃないっつーか、ちょっと経てばキレイに治っていきそうな感じの、でも痛みはしっかりある腰痛。
それと同じぐらいのタイミングで、これもなんの前触れも心当たりもなく、気づいたら急に唾が飲み込めないの。
コレ、地味にスゲー怖いですよ。
「ゴクリ」ってやろうとしても、「ゴ」のとこで体が止めにかかってくるみたいな。
「ン・・、うわ!ってことは、水飲めない!死ぬ!!」って。
んで試してみたら、水は飲める。
歯みがきのあとだったこともあり、食べ物が食べられるかどうかは確認せず、朝まで生き延びられることだけを願いながら床に就く。
翌朝無事に目覚め、生命のありがたみにひと筋の涙が、加齢臭漂う枕を濡らした。
朝食のみそ汁をすすり、恐る恐るカボチャを口に運ぶと、噛みしめる度すんなりのどを通り過ぎてゆく。
未来へ繋がった命に、ひと粒の涙がみそ汁をほんの少しだけしょっぱくするのだった。
とそんなことで、未知の症状が急にふたつ重なったんですわ。
腰の方は、なにかしら不意の動作で痛めたのかな~ぐらいに思ってて、飲み込めないのについては、私よく分からない甲状腺の不調が度々あるので、自律神経とかその辺を疑ってました。
んでまぁ、2日3日と経過観察してたらですね、気づいた時は全く飲み込めなかったのが、日毎に飲み込めるようになってきたんですよ。
その感覚から感じ取れたのは、(それまでのまったくコントロールが効かない感じでなく)鼻の奥というか喉の上の方というか、その辺の粘膜的なところになにかしら張りついてて飲み込む動作をジャマされてるような感じ。
自律神経とかでなくて、鼻炎?咽頭炎?
でそれが、日毎に回復してる。
腰の方も、日毎に回復してる。
んん?
これなんか、原因同じじゃねーか??
急になって、どっちも日毎に治まってきてる。
うん、急性の鼻炎or咽頭炎と、急性の腰痛。
そういえば、風邪の時って節々の痛みとかあるもんな。
にしても、こんなにはっきりした腰痛もあんのかな?
www.katutoshikanbashi-seitai.com
あるな。
でも、腰痛も飲み込めないのも、今までどっちも、風邪やらインフルやら溶連菌やらかかっても、なったことないな。。
未知やな、未知。。
未知、未知。。
未知の感染症。。
未知の感染症??
これもしかして、新型コロナウイルスやないかい!?
って感じなんですけど、皆さんどう思います?
で私実は、2ヶ月ぐらい前の「37.5℃が4日続いたら検査」みたいな時期にも、これコロナやん?って時あったんですわ。
37.5℃越えが2日続いたんです。
いや、わざわざカミングアウトしてヒステリックな反応されたり、はたまた無反応だったりしてもどっちでもヤだなと思ってダンマリ決め込んでましたけど(職場に申告して自宅待機になれたので一応社会的責務みたいなもんは果たしたかなと。ちなみに、2年ほど前のインフル陽性時には、「秘密にして出勤してくれ」と社長に頼まれて40℃超えの中出勤した)。
それと顔面痛みたいの。
顔が痛いように感じるのは副鼻腔炎っぽいです。
この時は、熱も顔面痛も2日で引きました。
前回は「熱と炎症」、今回は、「鼻から喉の炎症と腰の炎症」みたいな感じで熱はなし。
新型コロナは抗体ができても数週間から数ヶ月でなくなっちゃうらしいし、コロナサイドも変わってくみたいなので、多分どっちも新型コロナなんだろうなと、個人的には思ってます。
でね、匿名とはいえ家族や身近な人の症状までアレコレ言いませんが、おそらくそこらじゅうでそんな感じなんですよ。
でも、身近でコロナで亡くなったとか重症化したとかってあります?(ニュースやツイッター上とかならあるでしょうけど)
そんなぐらいのもんなんですよ。
感染は誰でもするので、いい加減「感染」そのものに老若男女全ての人がビクビクするのやめましょ。
「お薬を常用してるお年寄り」と、「コンビニ弁当とカップ麺が主食の人」あたりは自衛して。
締めはコチラの面白見出しニュース▼
とある本とテレビに学んだ「促し」で掃除のジジイとのトラブルを回避した
朝出勤すると、いつもなら(私が開けるまでは)閉まっているはずの受付前のシャッターが無人のまま開いていた。
ビルに入っている会社の都合で、時間外にシャッターを開けることもたまにあるので、いきなり緊急事態というほどのことではない。
念の為、請負元の管理責任者に確認したところオナカさん(掃除のジジイの仮名)から、「工事のせいで通用口から台車が出せない」との訴えがあり、シャッター開放を認めたとのこと。
ただ、私の出勤まで開けたままだったことについては、話しぶりからどうやら渋々OKしたようであった。
ジジイに手を焼いているのは私だけではない。
ジジイのゴミ出しから私の出勤まで、時間にして数十分のこと(要はそれぐらい開けっ放しでもいいだろというジジイのめんどくさみによる行動)とはいえ、防犯上問題があるのはもちろん、受付を無人にしておくこと、それはすなわち、誰もがなんとなく感じている「受付係いらなくね?」問題について、再考の機会を与えてしまいかねない愚行なのである。
私個人はもちろん、会社としても契約がなくなるリスクが増すなどということを、ジジイは考えない。
目の前の自分の作業のジャマになるかどうか、その瞬間の感情ですべてが決まる。
ジジイと共に時を過ごせば過ごすほど、「歴史に生まれた歴史の男」山根会長イズムをビンビン感じる。
公道だろうとどこだろうと、自分の歩く道は「自分の道」となり、よけないどかない。
共用だろうとなんだろうと、いつも自分が自転車を停める場所は「自分の場所」となり、別の自転車があろうものなら、誰よりも早く気づき、遠くへどかす。
さて、そうはいっても工事期間中シャッターを開けたままにするのは、なにかと問題が多い。
こんな時のために読んでいたのがこの本。
イルカのトレーナーがイルカをジャンプさせるための方法を書いた本だ。
イルカをジャンプさせるかのごとく、ジジイにシャッターを閉めさせなければならない。
これまでの私なら、ジジイを見つけたとたんに有無を言わさぬ物言いで、「オナカさん、シャッター閉めといて下さいね」などと言い放ち、ジジイはジジイで「知らないよ」とトボケてその場を立ち去る、そんな、お互いにストレスをチャージし合うだけの、底辺職場によくある不毛なやりとりをまたひとつ積み重ねるだけだっただろう。
しかし、今の私はイルカをジャンプさせる方法を知っている。
直接的な指示・命令は何の役にも立たない。
イルカ(ジジイ)に言葉は通じないからだ。
言葉でなく、自発的に行動するための「きっかけ」を与えて促すのが、ジジイトレーナーの私に課せられた仕事である。
当人にとって好ましいきっかけを「好子(こうし)」、好ましくないきっかけを「嫌子(けんし)」と呼び、そのどちらかをトレーナーが働きかけることで、望ましい行動を促す。
たとえば、分かれ道を右に行かせたい場合に、好子を使うとすると、右に(ジジイの好物である)生クリームを置いておけば、生クリームを食べたいジジイは自分から右に行く。
嫌子を使うなら、左にウンコを置いておけば、ウンコを踏みたくないジジイはやっぱり自分から右に行くのである。
求めて右に行くのか、避けて右に行くのか、その「好子or嫌子」のシチュエーションを整えることで促してやればいい。
と、もちろんそんなことはまるで考えていなかった私は、現れたジジイにこう言った。
「シャッター開いてたのって、工事の都合かなんかですか?」
ひとまずは、なにも知らない体でジジイの出方を伺う。
するとジジイが、そこに一切の思考も感情もない見事なまでの脊髄反射でこう返した(※前回の記事で初めて使ってみた脊髄反射というワードを、さっそくまた使ってみた)。
「あぁ、〇〇さん(責任者)が開けておけって言ったんだよ」
おなじみの完全なるウソだ。
さしづめ、「責任」という嫌子を避けるために「ウソをつく」という行動を(意図せず)促してしまった新米ジジイトレーナーの私、といった様相である。
さてどうする?
こんな時のために、この日の朝いつも通り午前3時に起きて見ていたテレビがコレ。
ふたりの旅路酪農大家族 26年の記録|NNNドキュメント|日本テレビ
農家の大家族の「NNNドキュメント」。
(※余談だが、この週はザ・ノンフィクションも大家族で、居酒屋店主の親父がラストでコロナに感染して片岡元コーチみたいに病院のベッドで酸素マスク姿になってた。片岡が自身のYouTubeチャンネルで闘病姿を公開したのをニュースで見てて、動画の最後に「チャンネル登録はこちら」って下を指さしてたら面白いのになと妻に話していたのは、片岡が回復した今となってはよい思い出である。しかしノンフィクションのディレクターは心配しながらガッツポーズしたんではないだろうか。次週に続くのでお楽しみに!)
と、これまでの私なら、ニヤニヤと鬼の首を取ったように「〇〇さんから聞いてますけど?」なんつって、マゴつくジジイの反応を楽しんだかもしれない。
番組の中で、物静かな妻が夫に言っていた言葉が私を踏みとどまらせた。
「お父さんはね、言い方がよくないの。俺の言うことが正しいんだから言うこと聞けって、いつもそういう言い方なの」
まさに自分に言われているようで、午前3時にガハハ苦笑いしてしまった。
このオヤジの気質とか、家族からの扱われ方(やってることの割にイマイチ慕われてない感じ)とか、すげー自分と重なってなんだか切ない。
私は、オナカさんのウソを思いやりでスルーした。
「なにがあるか分からないし、閉めておいた方がいいですよねぇ」
開けておけと言われた体で(トボけて)いるジジイの(ウソの)立場を尊重しつつ、管理責任者の無責任な指示に難色を示すことで、(直接的な指示・命令をせずに)ジジイに行動を促した。
「そうだな。〇〇さんに閉めた方がいいって言っておくよ」
ジジイは、自分のウソをすぐさま自分で回収し、気分よさげに去っていった。
私の「促し」が、「上長としてのカッコつけ」という好子を選択させたのである。
思わぬ本とテレビからの学びにより、言い方を改め行動を促すことで、お互いにストレスを溜めることなく今回の件を片付けることができた。
まだジジイとの関係が悪化する前、ジジイが足を引きずっていたので理由を尋ねると、「俺生クリーム好きでさぁ、昨日食べたんだよ、シュークリーム。そしたらこれだよ」
痛風だそうだ。
個人的には、これぐらいのコミュニケーションを取れる関係に戻れたらいいなと思っている私もいる。
でももう叶うことはないだろう。
あなたのビルに、たまに足を引きずってる掃除のジジイがいたら、それがオナカさんかもしれませんよ。
~ エピローグ ~
最近ビルに「建物の裏でタバコを吸ってるヤツがいて迷惑だ」と、となりのビルからクレームが入った。
犯人はジジイである。
ゴミ出しのあとすぐに戻らず、中途半端に時間が空く時が一服タイムだ。
状況的にそんなことが可能な人間はジジイの他にいない。
四月からビル内が全面禁煙になり、喫煙者は各々が見つけた、肩身狭くもタバコを吸える屋外喫煙スポットにイソイソと出かけて行く。
クレーム以降、ジジイも喫煙所ジプシーの仲間入りだ。
大雨の日でも、午前中、昼食後、午後の一日3回、チャリンコに乗ってまで出かけて行く。
そんなジジイの背中を冷めた目で見送るのが、最近の私の日課だ。
自分の正しさと他人の正しさ《日記#039》
2020年7月9日(木)
初心を忘れている。
ついつい、なにかしらのテーマで書こうとしてしまう。
そしてそれが、「テーマがなければが書かない」につながる。
こんなことではいけない。
さてとポテト。
つくづくつまらない世の中になっていく気がする。
家の中以外で、自分の考えを相手に伝えることがはばかられる。
考えが相手と違えば、相手を否定しているとも捉えられかねないような、そんな空気を社会に感じる。
私は、モノごとを本質的に捉えて理解し、できる範囲で行動に移す。
それはしばしば、社会の常識と違う方向に向かう。
単なる「自分を信じたい本能」ではない。
また別の事実を知り、これまで信じていた考えに矛盾を感じれば、考えを改め、まちがいを認める。
学歴や職歴のための勉強はしてこなかったし、人とのコミニュケーションも得意ではないので、自分がどこでなにを知り、どんなプロセスで理解を進めて、今ある結論に至ったかを対面で分かりやすく説明することが難しい。
結果、「こうならこうに決まってんだろーが。なんでそれぐらいのこと分かんねーんだよこのスカポンタン!」というコミニュケーションになる。
私は私で余裕がない。
医者でも大学教授でもIT社長でもない、ただの受付係のオジさんの考えなど、すんなり受け入れられるワケもないだろうが、それこそただ反発する前に、頭回して考えてから判断しろよと言いたくなる。
脊髄反射で反発するだけで、分かろうとする努力はしない。
社会と接する度に、家族の尊さを噛みしめる。
せめて家族には、やさしく穏やかに自分の考えを伝え、余裕を持って理解を求めるよう努めたい。
(つって、「家族が大切」と、思っていることを書くだけで、一人で生きてる人を否定しているように映ってしまうのが昨今、ってな話ですハイ。)
でもアレだな、むしろ私自身が「自分の正しさ以外認めない姿勢」でいるのかもしれない。
最後の一行でそんな気になれてよかった。
レジ袋を50円にすりゃいい【レジ袋有料化】
レジ袋が有料になりました。
それでも相当使ってる感じ。
いやべつに、レジ袋警察になるつもりはありませんけど、「お茶とおにぎりぐらい持てよ」みたいなね。
いっそのこと50円ぐらいにすればいいんですよ。
(勝手なモンで)人間にとって迷惑な生き物を「害虫」だの「害獣」だの言いますけど、今の地球に生きてて自然環境に無関心なんてのは、地球にとったら「害人」なんです。
いや、私がそう思ってるんじゃなくて、おもんぱかってみたら地球がそう言ってるっつーか。※どうですこの地球を盾にした予防線!
ペーパードライバー講習【2日目】で運転もパッシングも「おもんぱかり」だと知る - 私の体調
それほど環境に悪くないみたいな話もあるみたいですけど、使わなきゃ使わない方がいいんだから。
んできっとそんな人は「その方が経済が回る」とか「なにかと使うから」とか言うんでしょう。
ただ面倒臭いだけのくせに。
2円とか3円じゃそうなるんですよ。
だから「50円でもそのスタンス取るのね?」ってこと。
さすがにレジ袋一枚100円は、社会に新たなる憎悪を生む気がするので、50円で。
そうするときっと、相当数がエコバッグ持ち出すでしょ。
で、大半の人がエコバッグ持つようになる頃には、すっかりはぐれ刑事純情派、じゃなくて、エコバッグ推進派ですよ。
すいませんね、「派」だけではぐれ刑事持ち出したりして。
なんならはぐれ刑事出すためにわざわざ「派」を使って。
今は亡き母が好きでね、はぐれ刑事。
真っ赤な口紅でゴールデンバット吸いながら見てましたわ。
ハイ、すいません。
そんなとこで、50円ぐらい思い切っちゃえば、いっぺんに「文化」として根付かせられたんじゃないかなーって、なんとなく思っただけです。
べつにそんな社会に怒りを感じてるとかそんなんでもなく。
なんなら私だって、ここ3~4年ぐらいのもんですから、しっかりエコバッグ持ち出したの。
淡々としたもんです、近頃は特に。
大衆なんて、みんながやってりゃやるんだから。
マスク、消毒が感染対策になるってやっぱ本気で思ってるんですかね。
命守ってるつもりで、自らせっせと命削り倒して。
まぁしかし、私だって社会の一員ですからして、そんな社会でも折り合いつけて生きていきますけどもね。
じゃ、おやすむ~!!
ナスDは「大変」を「ワクワク」に変換する《日記#038》
2020年7月1日(水)
日曜日に、ナスDの無人島のやつを見ました。
ちょい前に録画してた、何年か前にやってたのの再編集版みたいの。
このリンクはそれの未放送分みたい。
あの尋常じゃないエネルギーがうらやましい。
無人島に2泊して、家作ったり、火を起こしたり、何度も海に潜ってモリ一本でタコとか魚とか捕まえたり、それを自分で作ったかまどで料理したりして、結局一睡もしてないんですよ?!
なにがステキって、全部楽しそうにやってるのね。
四時間半かけて作ったかまどの位置がちょっと遠いってまた一から作り直して、その最中に「うわぁなにコレ、めっちゃ楽しい・・・」だって。
心の声が自然と漏れちゃってる感じで。
失敗とかやり直しに対して、イヤだとか時間ムダにしたとかっていう雑念がない(のか、瞬時に切り替えてるのか)。
もちろん体力的にしんどくないワケないんでしょうけど、ワクワクとか、楽しさとか、好奇心とか、負けん気とか、本人の中にある「気持ち」が「大変さ」より断然強い。
なんかもう、あんなふうに在れたら人生たいがい面白いですよね。
結局しあわせかどうかなんて自分の気持ちひとつっつーか。
「一生分のお金あげるからずっと家にいろ」って言われてもナスDなら断るでしょうね。
いやもしかすると(お金は受け取らずに)「徹底的に家の中で楽しむこと」に全精力を注ぐのかもしれません。
上に貼ったYouTubeチャンネルも、お金をもらうようなものじゃないからって、広告入れてないんですと。
んでね、放送の中でギター弾いて歌ってたんですけど、歌まで上手いの。
なんかもう、超人。
いくつぐらいなんだろうと思ったら、74年生まれってなかなか年上なんですよ。
だからなにってこともないんですけど。
三ヶ月くらいビッチリ密着してもらって、無人島じゃなくて素の生活見てみたいですわ。
なんなら、ビックダディ的に長期密着ドキュメントでシリーズ化とか。
不愉快の「不」をスーッと消し去るブログ術《日記#037》
2020年6月26日(金)
どうこのタイトル?
今こんなタイトルのブログ本出したら、意外とニーズがあるんじゃないだろうか。
小遣い稼ぎでなく、承認欲求の消化でもなく、「自分自身のメンタルヘルスのため」っていう切り口。
ここのところなんだかモヤモヤしていたのだが、とある記事に書いた出来事が引っかかっていたようで、テキメンに心がスッキリした。
よく陰気な自己啓発本なんかにある「紙に書き出すことでストレスをリリースする」みたいの。
脳内で起きてることはまさにそれで、紙でもブログでも同じだ。
これまでもなんとなく実感してはいたが、しんどい時にただ漠然と書けって言われるのもしんどいなとも思っていた。
が、コツをつかんだかもしれない。
「不愉快な出来事をいかにバカバカしく書き殴るか」
コレだ。
不愉快の「不」がスーッと消えて(「不」だからフッと消えた方がよかったかもしれない)、いつの間にやら愉快なブログに変身するのである。
一見、ツイッターに誹謗中傷書き込んで発散しちゃう人と似たようなものと思うかもしれないが、だいぶ違う。
まずなにより、書かれた人が傷つかない。
書いた方は、バカバカしく書ければ書けるほど満足する(※攻撃してスッキリするのとは違う)。
相手を傷つけずに、自分を自分で癒す。
読んだ人がどう感じるかちょっと微妙な部分はあるが、他人が他人について書いていることなので、どうか気軽に受け止めてほしい。
数字やお金がかんたんについてこなくなった昨今、ブログの効用をそういうところに求めた方がはるかに健全かもしれない。
四年後の心配《日記#035》
2020年6月19日(金)
脱グーグルとか、サーバー移転とか、健康のこととか、色々と同時進行な感じで区切りがつかないと、ブログに向かいづらくなる。
まぁ週一回ぐらいは書いておこう。
実のところは、それぞれいい感じで進んでいて、なんならスマホカメラの写真整理とかまで手を広げて時間をくっている始末だ。
近頃思うことがある。
上の娘がもう小4。
なんだかずいぶんお姉さんになってきた。
心配しようと思えばいくらでもできはするが、親が必要以上にかかわらない方が、将来のためになる(と思われる)年頃というか。
さらに三、四年も経てば、下の息子も今の娘ぐらいになる。
そうなったらもう、父親としての役目の大部分を終えた感覚になる気がする。
子どもが親を求めなくなるまでに、子どもの心になにを残せるかが、子育てのほとんどなのではないだろうか。
自分に向けられた親の言葉よりも、自分以外に向けられた親の言葉を吸収するのが子どもだ。
作られた言葉かどうかを見事なまでに嗅ぎ分けるっつーかな。
で、下の子が今の娘の年頃になれば、もうだいたいその辺の下地が作られて、親から受ける影響は格段に少なくなる。
親よりも社会からの影響を求めるようになっていくのだろう。
そうなればもう、父の役目は終わったようなもの。
ってことで、問題はそっからの親父だ。
なんかもう、抜け殻みたいになりそうでコワい。
そんな心配を、近頃している。
脱Googleついでのワードプレスブログのレンタルサーバー移転に手こずり中《日記#034》
2020年6月11日(水)
相変わらず脱グーグルを進めているが、そのついでのワードプレスブログのレンタルサーバーの移転に手こずっている。
脱グーグルついでの手こずりついでの、はてなブログである。
まぁそのレンタルサーバー移転ってのも、グーグルの方向性を実感したからこそのこと。
もう「そこら辺の個人の発信は検索されない」のが、グーグル検索のスタンダードになっていくのだろう。
これまでなんとか「それなりに書きたいこと書いて、たとえ数えるほどであってもそれがどこかの誰かの役に立って、あわよくばお小遣い程度にでもなればいいな」なんて希望を胸にブログを続けてきたワケだが、これからはお小遣いどころか、お金にならない検索キーワードでさえ検索結果に表示されなくなっていく。
だだただウェブの海をさまようプラごみのようなもので、誰もそこに辿り着く術を知らない。
単なる「自己満ポイ捨て野郎」だ。
ドメインを取って、サーバーを借りているワケで、たとえ自分が価値のあるものだと信じていても、社会の中でゴミと同じ扱いを受けるものにかけるお金はできるだけ少なくしたい。
ってまぁ、そもそもアクセスのないブログだし、維持する必要もないのだが、それでも自分自身の続けてきたものを残しておきたい気持ちや、(今後も書き続けるので)モチベーション維持のための負荷として、ひとまずは「できるだけ少ない固定費で維持する」ことにした。
しっかし、前から「グーグルが評価する内容」が正解で、そこにいかに寄せるかみたいなものではあったけど、もうなんか「グーグル様のゴキゲン損ねたらおしまい」みたいな、明らかに気持ち悪い状況になってきてる。
こういう記事にリアクションしづらい、とかもう立派な言論統制が成立してるっつーかな。
検索エンジンの開発とかしてる人、今すげーチャンスな気がするんだけどな。
まずは世界を見ずに母国語回帰で、国内の情報をいかに内容で評価できるかってとこ突き詰められれば、けっこうな需要があるはず。
ま、それができるならグーグル様がやってるのか。。
なんつってたら、国産検索エンジン計画がずいぶん前に頓挫してた模様。
インターネットを使えても検索エンジンが無いというのは、「サイバーリスク」の1つとして考えるべきではないか
こんなことも有り得ると。。
しかしこんな国ぐるみでなくても、インターネット界の藤井聡太くんみたいな天才少年が現れて「検索エンジン作ってみた (「・ω・)「ホイ」とかって突然スゲーの上げられたりしないもんなのかしら。。
Googleに依存する方が断然便利だ《日記#033》
2020年6月4日(木)
脱Googleはまだしばらくかかりそうだ。
とにかく感じるのは「グーグルの便利さ」と「支配欲」。
脱グーグル作業をしていると、便利なサービスを生み進化させていくモチベーションの根っこに「支配」を感じることが度々ある。
一個人なら、カプセルホテルの支配人ぐらいでけっこう満足できそうなものだが、グーグルは「検索窓の支配人」では満足しなかった。
はっきり申し上げてグーグルに依存するのが一番ラクだが、なんとなくもう後には引けない。
つってもまぁ、アンドロイド使っててグーグルアカウントを削除するっては現実問題なかなかひねくれた作業になってくたびれるのでそれはしない、っつーかできない。
気持ち悪いのは、行動やら思考やら移動やらが、個人情報と紐付けられて地続きで把握されちゃう(感覚になる)こと。
自分なりに納得できる線引きで移行できればよしとしよう。
とりあえず、Chromeとグーグル検索については、すでにほぼ使っていない。
気づけばあまり検索に時間を割くこともなくなっていたようで、意外とすんなりやめられた。
元々スマホのブラウザはOperaをメインで使っていて、Chromeはサブだったので。
検索はBingと、プライバシーに配慮しているらしいDuckDuckGoを併用してみてて、あまり「いい感じ」とは思わないが、まぁ(なんとか)必要十分というか。
ヤフー検索の中身はグーグルとほぼ同じなので、データはグーグルにも行ってるものと考えて却下。
あと、コロナで状況がコロコロ変わる昨今、あの店はやってるのかとか、あの公園はどんな感じだとか、ツイッター検索で今欲しい情報を見つけることも多い。
取りかかってみて、改めて依存度の高さに気づかされたのはGmailだ。
なんだかんだ作ってきたサブのメアドもすべてGmailで送受信できるようにしてたり、ラベル分けして通知の管理をしていたり。
で、同じことを他のメール管理アプリでやろうとしても、どうにもすんなりいかない。
便利やラクに身を委ねるのが「依存」といってもいいのかもしれない。
グーグルへの依存を減らすのと同時に、ついつい放ったらかしにしてきた諸々を整理して削っていくいい機会だ。
これはあっさり移行できた。
Simejiはいい。
えーっと、あとはまぁまたにしよう。
「各種代替サービス」について一覧のような記事をぜひ書いてもらいたいです!
— 自由ネコ@はてなブログ@Blogger (@gattoliberoTW) 2020年5月28日
こんな読者様の声も頂いているので、ある程度済んだらまとめて記事にする予定だ。