日常を「こんな時代を楽しむゲーム」にする
さんざん今の時代(コロナ含めインターネット、スマホ、SNSとか)を憂いてきた私だが、風向き(というより私の向き)が変わってきた。
世界が(私の思う)よい方向に向かうことはもうないだろうという考えは変わらない。
だがしかし、私の向きが変わってきたことで(屋根の上の平べったい私が、風見鶏よろしく風により向きを変えているイメージ)、こんな世の中との向き合い方が見えてきた。
ゲームだ。
体によいもの悪いものがなんだか分からないなら、それを調べて、ふさわしい食材を手に入れ、適切な調理をする。
体の不調があれば、調べてみてあやしい要因をツブしていく。
そんなゲームだと思って向き合えば、ただの「苦」が、やりがいめいたものに変わってくる。
こんな世の中に憤りや嫌悪を感じたら、ネガティブなエネルギーのまま溜め込んだり吐き出したりせずに、ユーモアに変換して、自分のネガティブも世の中のネガティブも薄める。
ちょっとした欲求に抗えないなら、世の中の仕組みを知る。
たいがいのモノゴトは、目の前しか見ていない人間が利用されることで成り立っていることに気がつくだろう。
あなたがそのままでいいならそれでもいいが、「そんな時代」と迎合し続ければ自然と心身を病むのが現代だ。
すべてを「そんなゲーム」にすると、世を憂うより攻略に忙しくなる。
(Switchの月額300円のファミコンの)ツインビーで、鍋とか目玉焼きをよけつつやっつけつつ、雲の中の鈴をいい色になるまで撃ってる最中に、両翼がなくなったのを直すピーポーみたいなやつを取りに行こうとしてるのに、息子の操る水色号がキャノン砲みたいのを撃ちたくて私のピンク号にくっついてくる時に、ふとこんなことを思った。
じゃ、おやすむ~!!
ブログが滞る人が増えてる気がする今日この頃
いやはや、私の進んできた道がどうやら正しい道であったことに、大いなる確信を感じているこのところだ。
年々地味に増していく、病気未満の心身の不調に危機感を抱き始めたのが、二十代後半。
十五年かけて、ようやく改めてスタートラインに立てたような心持ちである。
とまぁ、私のことはまたの機会にまとめて放出するとして、近頃ブログがペースダウンしたり、すっかり書かなくなる人が多くなってません?
自由ネコさんが一ヶ月更新しないとか。
お久しぶりのオミソシルコさんとか。
忙しそうな泉沢さんとか。
だいぶ前にこちらの記事で言及させてもらった御三方も、浜田さんがワードプレスで継続してるのみで、マスヲさんといっしーさんのお二人はブログ消えちゃいましたよ!
マスヲさんの過去記事とか、私の老後の楽しみにとっておきたかったのに。
ブログって、まず「ブログに充ててもいい時間」があって、そこに「ブログを書いてもいい気持ち」が重なってこそナチュラルに書けるものっつーか。
あとは「読んでくれる人の存在」とか、「いくばくかの利益や数字」とか、時間と気持ちの程度を左右するいくつかの要件があると思うんですけど、世の中がどんどんその要件を満たさない方向に進み続けるもんだからこんなことになっちゃうのかなーと。
余裕のない労働システムとか、Googleの方針とか。
んでまぁ、そんな世の中でどう立ち回ればいいんだろうかってなると、私は結局「健康」に行き着くんですよねぇ。
心身の健康が、「やりたいことをやれる状態を保つ助けになる」っつーか、そのおかげで世の中の(ネガティブな)空気に引っぱられないっつーか。
その前に、やりたいことが自然に出てくる状態なのはもちろんのこと。
おっとまぁ健康話はほどほどに。
全然関係ないんですけど、2週ぐらい前のロンハーでちょっと忘れないようにしときたいことがあったのでメモしときます。
今夜の #ロンドンハーツ は
— ロンドンハーツ(テレビ朝日) (@londonhearts_sp) 2020年9月28日
「アイツ語ってたよGP」
ニセの青春番組と知らず、芸人たちが10代の悩みに熱く回答‼
キザ・・・薄い・・・響かない・・・
爆笑回答が続々‼
若者代表ニコルに突き刺さったのは?#語ってる#語り#ワクワク族#青春う~ん族#塞翁が馬一味#ロンハー#10月8日3時間SP pic.twitter.com/fs4NSiGCR6
芸人たちが若者の悩みに答えるみたいなニセ企画で、あんなことやこんなことを語ってたよね~っていうの。
若者代表の藤田ニコルの反応が、なんか私の中で示唆に富む感じだったんですよね。
細かい内容は忘れましたけど。
たとえたりうまいこと言っても「で?」としかならなくて、自分はこう思ってこうしてこうだったとか、この曲聴けとか、ケツを押すだけでなく止めるとか、同じような立場だったらどうするとかこうしてこうだったとか、具体的でないと響かない感じ。
なんかね、子どもになにかを伝える時に、同じような感覚を覚えることがあって、どうすれば伝わるのかな~ってのの答えがコレのような気がしたんですわ。
子どもが体験しているであろうことと、自分の同じような状況を重ね合わせて、自分の場合はこう思ってこうしてうまくいったとかそんな感じ。
あ、「悩んでもしょうがないよ」じゃなくて、「どうすれば悩まなくて済むのか」を教えてくれって感じか。
そうそう、結論でなく、過程とか方法を知りたいのか。
いや実は今書いてて、一体何が腹落ちしたのか分かんなくなってたんですわ。
書き留めておかなきゃってのだけ残ってて。
いやよかった、書いてみて。
まぁそんなとこで、世の中の空気に抗う元気が少しずつ出てきてるので、これからの自分が楽しみです。
じゃ、おやすむ~!!
栗を買って休日にモンブランを作るオジさん
最近はかなり元気になってきて、週末は台所に立つことが多い。
この土日も、栗を買ってきてモンブランミニタルトを作ったりしてみた。
モンブラン用の口金まで買っちゃってな。
普通においしいまあまあの出来だった。
てっぺんの栗をテカテカにしたかったが、今回はあきらめた。
図書館で借りたレシピ本の「ポテトスティック」なるものも作った。
じゃがいもをふかしてつぶし、オリーブオイルと塩と小麦粉(米粉に変更)、ベーキングパウダー(重曹に変更)を加えてまとめオーブンで焼く。
いちいちシャレついた感じに仕立て上げてて、鼻についたらすまない。
まぁ、ありのままの休日だが。
レシピ通りだとしょっぱ過ぎたものの、ヘルシーなじゃがりこみたいな感じでおいしかった。
かんたんにいろいろアレンジもできそう。
おまけに、手作りマロンペーストの余りでクリクリクッキー。
マロンペーストを焼くとマロンの味がきれいに消えることが分かった。
さ、こんな感じの近頃である。
せめて子どものマスク消毒の半強制はそろそろやめてほしい
こんなことがあった。
子ども2人(娘10歳息子6歳)と、ちょっとしたお買い物にあるお店に入った。
私と娘はスタスタと店内に入り商品を見始めている。
ふと外に目をやると、息子が入口付近で立ち止まり、こちらに向かって口元を指さして地団駄を踏んでいた。
マスクを忘れたようで、マスクなしでは中に入ってはいけないと思っているようだ。
入口に戻り、「入っちゃいけないわけじゃないから大丈夫だよ」と、諭す私もマスクをしていないことにその時気がついた。
(※ブログ上では常々マスクの無意味さを訴えている私ですが、店とかではマスクしてます。マスク警察に取り締まられないように)
私はさておき、息子の方は店内に入ってからも、自分が悪いことをしているかのように、半ベソをかきながら自分の手や上着の襟で口元を隠しながら歩いている。
子どもというのは、親としか過ごしていなければ親だけをお手本にするが、幼稚園や学校など、「子どもの社会」に属すればその社会をお手本にするようになっていく。
みんながマスクをしていればマスクをする。
みんながしているマスクを自分がしていなければ、自分はいけないことをしていると感じるようになるのだ。
小さければ小さいほど、そこに理由はない。
意図せずとも、理屈が通じないうちに本能的に従わせてしまうということになる。
私自身親になって感じるのは、教育と洗脳は紙一重だということ。
紙一重というか、よい言い方なら「教育」、悪い言い方なら「洗脳」というだけで、同じものと言ってもいいぐらいだ。
ホリエモンも同じようなことを言っているのかどうかは、読んでないので分からない。
なので、私なりに洗脳にならないように心がけて、「マスクは意味がないからするな」みたいな強制はしていない(※消毒はできるだけするなとは言ってる、が、大人が消毒液を持って近づいてくればしてしまう)。
個人の考えとしてそういう話をすることは多々ある。
子どもたちの行動を見るに、悲しいかな「社会の力」は「親の言葉」より強い。
つまりは、社会が正しくなければ子どもたちは正しくない方向に進んでいくということになる。
だがしかし、(社会の力が働いているとはいえ)それが本人の選択である以上、親として正しい(と思える)方向にムリヤリ方向転換させることは「洗脳」に当たるのではないだろうか?
そんなことが頭の中でグルグルする。
だからこそ、社会にはある程度正しくあってもらわなくては困るのだ。
半年ほどのコロナ禍のニュースや体感で、子どもの重症化や死亡のリスクが極めて低いことは誰もが理解していることではないだろうか。
多くの大人が「みんなやってるから」という洗脳で育っている社会では、この程度の願いもさっぱり叶わないのである。
お笑い第8世代への同情
芸人たちが時代に振り回されているように感じることが増えた。
少し前の岡村のラジオでの一件がその代表例になるのだろう。
もはや、笑わせることより「地雷を踏まないこと」がテレビレベルの芸人の最優先事項だ。
社会的弱者様にも安心して笑って頂けるお笑い。
仕事上だけ気をつけておけばいいかというと、そんなことはない。
プライベートでも、スキャンダルの許容範囲が極めてせまくなった。
炎上で牙を抜かれるか、スキャンダルで一発退場か。
こうなってくると、ヤクザのパーティーの方がよほど楽しく仕事ができるんではないだろうか。
つって正義を貫けばこんなことになっちゃう芸能界。。
コレ自殺の方が不自然やないかい。。
んで、なんなら表舞台が、針のむしろの上で「芸」を強要されてるかのようで、見ているこちらまでツラくなってくる。
たまたまゴールデンタイムで、こっから売れるかどうかの若手たちが激辛食材を食わされていたのを見た。
本当に辛そうなやつを、テレビで売れるために、ただムリをして食べさせられているように私には見えた。
第8世代の目指す場所がココなのかと思うと、今から同情しかない。
「コレちょっと違くない?」って(立場的にも芸風的にも)言えるはず、というか言ってほしいタイプの先輩芸人MCが、スタジオでヘラヘラ笑いながら見てただけだったのがなんか残念だった。
べつにマジメ気取りでもなんでもなく(そこに何か別の笑わせるための演出がないなら)、先輩教師に激辛カレー食わされてたニュースと変わらんから。
そんな、「お笑い」でぐらい余計なこと考えずに笑わせてほしい今日この頃なのである。
鼻と口を知らない間柄の人が増える
私はビルの受付係。
ビルで働く人たちの中で、鼻と口を見たことのない人が増えてきました。
ネット黎明期には、文字データのやりとりのみの「顔を知らず会ったこともないけどリアルの友だちより親密かも」みたいな、それまでにない人間関係が生まれたものです。
これからは、「毎日会って言葉を交わすけど鼻と口を見たことない」っつーのが最先端の人間関係になっていくことでしょう。
「私たち、鼻も口も知らないけど結婚しちゃいました♡」みたいな。
私の好きなちびまる子ちゃんの回に、こんなのがあります。
お姉ちゃんが密かに恋心を抱いていたイケメン若手歯科医が、マスクを取ったら鼻から下ハマジみたいでがっかり!みたいの。
実際私もついこの前、最近現れたガングロハゲおやじみたいな人がたまたまマスク取ったら、それこそ鼻から下ハマジっぽくて「フザケんなよ!」と思いました。
そうなんです、人って「勝手にこうだろう」って思って、そうじゃないと「勝手にがっかり」するんです。
恋心を抱いていたならまだしも、ただのガングロハゲおやじに対して、勝手に理想像を描き、その勝手な理想像どおりでないことに対して、勝手に不満を感じるというワケなワケなのです。
なんとも不条理ではありませんか。
にんともかんとも不条理ではありませんか。
古くからの人間の本能は、進化を続ける現代の人間にとっては不条理なケースも多々あり、嘆いたところで今すぐどうこうなりません。
そんな時には、先だっての芦田愛菜ちゃんのありがたいお話を噛み締めましょう。
ビルの受付で、「釈迦かよ!」ってつい声を張り上げましたね。
まさにこれからの「口と鼻を知らない間柄」で、多くの人と共生していく社会への処方箋といっても過言ではありません。
そして、芦田愛菜ちゃんが輝けば輝くほど、相方の鈴木福くんの体たらくを糾弾してしまいたくなるのもまた、人間の不条理な本能にちがいありません。
私たちや福には分からないであろうその問いの答えも、釈迦か芦田愛菜ちゃんが導き出してくれることでしょう。
じゃ、おやすむ~!!
ロングコートダディが林やすむ賞受賞【キングオブコント2020素人審査】
さてとポテト、林やすむ[@hayashiyasumu]です。
ジャルジャルの優勝で幕を閉じた【キングオブコント2020】の素人審査結果の発表です。
私の中の優勝は、ニューヨークでした。
2本目の「切ってきた髪を見せたくない舎弟」のネタが、今日イチだったからです。
昨年のM-1、キングオブコントの両大会で優勝は逃したものの、M-1で「林やすむ賞」、今回は「林やすむの優勝」をかっさらいまして、通称「ねじれダブル」の偉業を達成致しました。
M-1ではニューヨーク本来の持ち味は発揮できてない感じでしたが、今回で「ちゃんと面白い」ことを示せたんではないでしょうか。
ジャルジャルは、1本目だけならワタクシ的にも優勝でしたが、2本目の良くも悪くもシンプルすぎるネタが、個人的にはちょっとハマらなかったです。
さぁ、おまちかねの「林やすむ賞」は、ロングコートダディです。
ダンボールを積み下ろして中の部品を運ぶアルバイトのネタ。
私今回、自分の中で気づいたことがあって、ひとつは、リアルが垣間見えること。
あ、どういうのを面白いと感じるのかって気づき。
設定が現実っぽいかどうかってのとはちょっと違くて、「ホントにこの感覚に陥った瞬間があったんだろうな」ってのをイメージさせられるっつーか。
それと、「ありえそうなありえなさそうなバカ」。
こういうヤツいるよなっていう共感のラインを、足跡1個分ぐらいまあまあ派手に越えてくる感じの。
そんなやりとりだらけでしたよね。
頑なにDの箱を下に戻す感じとか。
ニューヨークも2本ともそんなんを感じさせられました。
不本意な髪型を見せる見せないっていうちょっとした意地の張り合いが「殺るか殺られるか」にまでエスカレートしちゃう。
それで言うと、ジャルジャルの2本目のタンバリンなんかは、完全に「ありえないバカ」になっちゃってて、「感覚」過ぎるなって。
さっぱり記憶の中になかったんですけど、ロングコートダディって、私さっきはった記事で触れてたんですよね。
敗者復活にも初見の面白いコンビいたんですよねぇ。
私の中の、敗者復活勝ち上がりは「くらげ」でした。
「分かんねえけど」って言いながら、女の気持ちを分かりすぎてる男のネタ。
次点は「ロングコートダディ」。
天ぷらと3対3で合コンするネタ。
くらげが勝ち上がってあのネタやってたら、すげーハマった気がするんですけどね〜。
初見だった2組が、私審査の敗者復活上位2組だったのもなんか、(勝手に)今年の面白かったM-1の予兆になってましたわ。
なんか、ほ~ッて思うのと同時に勝手に照れましたわ。
えー、その他で言うと、空気階段もやっぱり面白いんだけど、ネタ的に王道のコンテストで優勝するタイプじゃないのかな~って気がしました。
2本目なんて、創作なら今のテレビでもこんなんしていいんだ!って、ヒヤヒヤしながらやけに感心しました。
とまぁ、こんな感想でした~。
カムバック!「好き」と「意欲」!!
十代後半頃は、いろんなモノが「好き」で「意欲」があった。
「好き」のための行動に迷いはなく、面倒なことでも「好き」の過程ならネガティブな要素にはならなかった。
今なら、ちょっとしたひとつひとつがハードルになり、「行動」にたどり着くまでが、遥かなる道のりとなる。
なんなら行動しないことを正当化するために自分でハードルを設置していると言ってもいい。
さて、今この冒頭のムードから、なんとなくエモみのあるイイ感じの文章を連ねられる気がしていたが、ちょっとつっかえてしまって、もう無理みたいだ。
流れのまま、抽象的な「感覚」主体で続けようか、具体的なあの頃の「好き」の例を掘り下げていこうかで迷った。
抽象的パターンは、正直なんか面倒臭くなり、それこそ意欲を削がれた。
具体的パターンをいくつか思い巡らせたが、どれもいい感じの展開が見えず、やはり意欲を削がれた。
意欲を求めている私から意欲を引き出すほどの何かが、どこにも見当たらない。
だがしかし、このまま終われないだろう。
ムリして続けてみるので、「この人はムリをして書いている」と感じながら読んでほしい。
当時の私が胸躍らせる対象といえぱ、「シリアルキラー」そう、連続殺人犯だ。
ジェフリー・ダーマー、アンドレイ・チカティロ、アルバート・フィッシュ、エド・ゲイン、ジョン・ウェイン・ゲイシー、テッド・バンディ、エド・ケンパー、デビッド・バーコウィッツ、、
これぐらいの、オールスター級の名殺人鬼の名前なら今でもスラスラ出てくる。
う~む、なんだろう、やはり先のビジョンが見えてこない。
なにか別のモノにしよう。
広島東洋カープ、というよりも、前田智徳が好きで、、いや、違うな。
仏像とか、懐メロとか、ショーケンとか、Tシャツとか、「好き」と言えるものが山ほどあった。
今ふり返ると、それほど詳しいワケでもなく、イベント的なものに出向くワケでもなく、仲間と交流するワケでもないのだが、それでも間違いなく「好き」と言えた。
そこかもしれない。
「好き」と言えるほどの興味が持てないというか、、
うーむ、やっぱりいい着地点が見当たらない。
それでも、これだけ乗らない中、やれるだけのことはやった。
今も、気の利いた最後の一行を紡ぎ出そうと粘ってみたが、サッパリ出てこない。
こんな日もあるさ。
じゃ、おやすむ~!!
消毒ババア警察に取り締まられた件
ふと気がつくと、受付の前の道路のジャマな位置に自転車が停められている。
通行の妨げにならぬよう、私は自転車を端に寄せた。
ほどなくして自転車の持ち主らしき老婆が現れ、自転車が移動されていることに気がつく。
ガラス越しに目が合い、私は「すいませんけど動かしましたよ~」というメッセージを込めて、やわらかな会釈をした。
老婆は私のやわらかな会釈を弾き返すかのような硬い表情のまま、無言で受付の入口に置いてある消毒液をポンプごと持ち出し、(私が触れているであろう)自転車のハンドル、サドル、荷台に次々と消毒液を吹きかけたのである。
ボトルを戻し、立ち尽くす私に視線を向けることもなく老婆は去っていった。
老婆からすれば、私は新型コロナウィルス同然なのである。
同然っつーより、老婆にとって「他人はコロナウィルス」なのだ。
そう、これがコロナ禍で手に入れた人間同士の新しいコミュニケーションの形。
有無を言わさず殺される、目に見えない微生物たちの気持ちがよく分かった。
微生物に気持ちはないって?
「生きたい」という本能ぐらいは理解できる同じ「生き物」でありたい。
老婆に対して怒りも哀しみもなく、あるのは、そういうヤツを生で見られたというちょっとしたオモシロと憐れみである。
大衆の多くは、未だに消毒・マスクに意味がないどころか、長期的に見たら相当に有害であろうことを受け入れられない。
知らないわけでなく、自分のやってきたこと、信じていることを咎められるのが我慢ならないのである。
もはやこのコロナ禍が「事実」によって収まることはないだろう。
まして、事実が一体どこにあるのか、どうやら誰にも分からない。
となれば、ウソでもごまかしでもいい、求めるのはただの「安心」だ。
その逆に「不安」をあおる仕組みをフル回転させるこの社会に、疑問を感じているのは私だけではないだろう。
人類総出の茶番劇に付き合わされるのもまた、我々大衆なのである。
今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」
エヴァンゲリオンにハマれなかった中年の気持ち《日記#050》
2020年9月11日(金)
気のせいでなく調子がいい。
日々回復を実感するこの心地よさよ。
少し前にNHKで立て続けにエヴァンゲリオンの劇場版のやつがやっていて、せっかくなので録画しておいた。
世代的には見てる世代なのだが、私は素通りしていて、初めてまともに見た。
思ったのは、「こういうのは、見るならちゃんと盛り上がってる時に見た方がいい」ってこと。
だいたいが、若い時にリアルタイムで食いつかなかったモノを、(当時からの評判を踏まえて)おっさんになってから見ても、なんとなく「どれどれお手並み拝見」みたいな、なぜか上から目線で受けて立ってしまって、全然純粋に楽しめない。
時々出る名ゼリフっぽいフレーズも、シンジくんのナイーブさや綾波の謎めいたキャラ設定も、ライトなお色気描写も、意表を突いた感じのBGMも、いちいち庵野監督の顔が浮かんで、すべて「あざとさ」に変換しちゃって。
そんなこと言い出したら、アニメだろうが小説だろうが、フィクションのストーリー作品楽しめないだろっていう。
なので、エヴァンゲリオンに恨みもなにもなくて、問題はこちらサイドの歪んだモノの見方だ。
そもそものところで言うと、私は子どもの頃から(巨大)ロボットものをスルーし続けてきた。
だいたい巨大ロボットなんてもんは、もし本当に必要なら今の技術でできないもんでもないのに、現実社会で一切発展しないということは、社会に求められていない代物なのだろう。
そんな、現実の社会に求められてもいない世界観の中で、(特にロボットものに限って)ノリがマジなのである。
マジメにやってればやってるほど、「いやロボットって!」ってなる。
響くも刺さるもあったもんじゃない。
小さい頃は、社会がどうなんて考えてはいないはずだが、幼心に「ロボットとマジのミスマッチ」を肌で感じていたのかもしれない。
ガンダムとかマクロスとかパトレイバーとか、みんなマジだ(知らないけど多分)。
まずそこで、入り込めない。
だったらなんで見たんだよと言われれば、だからこそエヴァンゲリオンに期待したのかもしれない。
新しい時代のロボットアニメを見せてくれるのではないかと。
20年ぐらい前のやつだけど。
すでに述べた通り、私の期待は裏切られた。
まともに見たと言ったがウソだ。
3作品のうち2作目の途中からダレてきて、3作目の序盤で「こんな気持ちのままエヴァ(の世界観)に乗り続けるなんてできないよ!」と、私の中のシンジくんが叫んだ。
アスカが「だからあんたは七光りなのよ!」と挑発する。
もう一人の飛鳥は「ヤ~ヤ~ヤ~~♪」って歌ってる。
綾波も一緒に拳を突き上げて歌ってる。
バンダナにサングラス姿で。
画面の中のシンジくんが言葉を発したのとほぼ同時に、私はリモコンの削除ボタンを押した。
「逃げちゃダメだ」