朝4時にイノマーで声を上げて泣くオジさん【家、ついて行ってイイですか?】
お正月に放送され、各所でザワついていた「家、ついて行ってイイですか?」(テレビ東京)のイノマー回、見ました。
いやもう、壮絶。
なるべくネタバレなしで書きますけども、見るまで一切情報入れたくないって人は、読み進めずにコチラの記事でも読んでって下さいまし。
(※東京みるくベイビーズの面々にも、ぜひ「イノマーと東京みるくベイビーズ」みたいな手記を綴ってもらいたいですな~)
さてとポテト。
番組のザックリ概要。
まずは普段通りの「家、ついていってイイですか?」のスタイルで始まり。
深夜の下北沢で、なにしてるんですか?って聞いたら「(内縁の)夫のお葬式のあとです」みたいな。
いざ家行って、バンドマンで、こんなバンドで、こんなライブやって、こんなアルバム出してて、って、たまたま当時に放送見てたら、「おぉ?おぉぉ??ぉわお!!」みたいになるとこなんですけど、そのディレクターがイノマーを一切知らないのがまたリアルで、そのパートは淡々と進みます。
っていうとこまでが、去年の3月に放送された分。
そもそもそこで遭遇したってことに、なにかしらの導きみたいなものを感じちゃうワケですが、この放送が、番組とは直接関係のないところで打たれていた点と繋がることになります。
元々バンドマンとして親交のあった、テレビ東京ディレクター上出遼平氏が、(おそらく)番組や映像作品として表に出す前提なしで、イノマーの亡くなる一年ほど前からカメラ取材を続けていたのです(※上出氏のバンドに「タンポンズ」と命名したのがイノマーなんですって)。
そしてその取材は、イノマーの命が尽きるその瞬間まで続きます。
ってつまり、それだけでも濃かった放送から、遡って激々濃厚なエピソードゼロに繋がったワケです。
野暮なのでここから先は書きませんが、よくコレを今の地上波テレビで流したなっていう、全編そんな放送です。
ファンだからどうとか、そういうとこを超えた価値を感じられる瞬間が無数に散りばめられていて、それがまぁホントに、カッコよかったりカッコ悪かったり、笑えたり泣けたり、力をもらったり力が抜けちゃったり、奇跡を感じたり現実を突きつけられたり、イロイロ壮絶すぎて、朝の4時にオジさんが声を上げて泣いたよっていうお知らせのブログ記事でした。
ヤワヤワな番組だらけの昨今、「テレビの価値」を感じさせてくれる大変貴重な番組でした。
こちらのお二人も登場してましたよ。
配信もやってくれてるので、どーぞ。
「知らない幸せ」と「知ることの不幸せ」
さてとポテト。
最近つくづく感じるんですわ。
ホントっぽいことを知れば知るほど「楽しくなくなる」って。
前の前の記事でもちょっと書きましたけど、私の場合は、十数年ほど前に「健康」とか「生きづらさ」とか、それから「子育て」とか、その辺をアレコレ調べ出したのが、思えば能動的に知識を得ようとすることの始まりでしたか。
でまぁ、始めのうちは知り得た知識や理解を元に、なんだかんだよくなっていく実感もあって、「知らなきゃ損やん!」みたいな感覚だけだった気がします。
あとから思い返してみて、なんとな~く次第に変わっていったのは、「周囲との認識のズレ」みたいなものかなと思うんですけど、なんかそんな「その時はソレと気づいていない違和感」を積み重ねていったことによるのかもなと。
それもまぁ確定的なワケでもないけど。
知識を得て理解を深めていく自分がいて、ネット上には私が今知ったばかりのことを当たり前のように理解している人、さらにその先の、私には今後も到底理解不能なことを(おそらく )理路整然と書き連ねてるような人がいて、反面実際に眺める世の中は、そんなことを考えてなさそうな人がほとんどに見える。
この辺の、現実どれも人間の様なんだけど、インターネットがなければそこまではっきり意識させられなかったはずの、姿のない無数の明確な思考や感情までもが、どんどん自分の頭の中に押し入ってくるというか。
テレビの中だけにいたスターやスペシャルなポテンシャルの持ち主が、ウチの近所や、はたまたどことも分からないへんぴな田舎町なんかにもそこかしこにいるんだろうなっていう、当たり前といえば当たり前な(認識する必要のない)現実を意識させられる。
(※ちょっと追記。スゴい人とかもそうだけど、初めの頃は、「そうそうその感じ!!」っていう「同志」を見つけた嬉しさが勝ってたような)
人間という動物のキャパは、家族、親戚、友達、職場、生身の自分の行動範囲程度なんだろうと思う。
脳みその無意識用のスペースがパンパン。
ただ「情報を知る」ってだけでなくて、その情報を他者がどう捉えているかまで過度に意識させられちゃう感じとか。
あと、知りたいことを知ろうとすると、知らなくていいことも一緒に知っちゃうってのもある。
例えば銀歯のアマルガムの話。
銀歯にどんな悪影響があるのか、それを回避する方法はあるのかを知れればそれでいいところに、政治的な思惑でアマルガムが保険適用され続ける事情みたいなことまで知る。
そんなんをコマゴマとでも積み重ねてくと、どんなカテゴリーでも起こってることは同じで、正義や事実よりも、お金や権力がモノを言うのが人類の本質なんだなってのが実感として染み込んでいく。
それでもまだ、たまにそんなニュースを見たところで、あくまで他人事だったの。
個人的には、現実問題として裏でなにがあっても、最低限大衆の利益に貢献してくれていれば「まぁしゃあないか」ぐらいな捉え方でいるつもりだが、コロナ禍はその限度をズカッと超えてきた。
もはや利益のありなしどころか、不利益をこうむりながらでも「旧来からの正しいとされるもの」を疑うことなく従うのが大衆であることが、悲しいかな私の中の常識になりつつある。
かんたんな話、今まさに「大衆のバカさ加減」があからさまに試されていることにも気づかない。
二重マスクでストッキングかぶってろよ。
いやゴメン。
大衆同士で罵りあってちゃ誰かの思うツボや。
さぁやっとこさココまできた。
ココな。
知らない、気づかない、疑問を感じないってことに対して、なんだかんだネガティブな感情が湧いてしまうのは、知ってしまったからに他ならないワケ。
知らなきゃ感じようもないんだから。
知らなければ、そこに関するストレスが一切ない。
もちろん、マスクや消毒の実害や、制限のある生活の影響は、遅れて必ずやってくる。
が、遅れてくるからそれがコロナ禍によるものとは、これまた気づかない。
ってな感じで、なにがあろうとも知らなければ、知ってしまったが故のストレスとは一切無縁ってこと。
そして、知ってしまった方は、一度知ってしまったら、知らなかった自分には戻れないのである。
これがなかなかの悲劇なワケや。
「アレを食べればこんなリスクがある」とか、「今この時が楽しくても問題はなにも解決していない」とか、なんにせよ手放しで楽しめなくなる。
知ってしまった今、どちらがいいかと問われれば、、ぜひとも戻りたいわ。
余計なことなんか知らずに、目の前の楽しいことに夢中になりたい!
なーんて、楽しくもないアレコレを考えながら「しあわせムズいな!」って、学くんの頭を思いっきり引っぱたきたい今日この頃の私なのである。
最後に、夢の登場人物がマスクを着用しだしたことをお知らせしておく。
なんか、もはや病気感漂ってきたな自分。。
じゃ、おやすむ~ッ!!
「その場ダッシュ」が笑っちゃうぐらいスゴい
昨日、ふと思い立ってその場で全力でダッシュしてみた。
30秒ぐらいダッシュしたら、ハァハァゼェゼェして、のど渇いて、心臓ドックンドックンした。
思わず一人で笑った。
寒さも吹き飛ぶ。
家の中でジッとしてずっとうすら寒い時なんか、これ一発で全身に血が巡って、筋肉が盛り上がってTシャツがはち切れそうなぐらいの感覚になるだろう。
これはものすごい運動量だ。
昨日、急なこの発見に地味にコーフンして、計4セットほどダッシュしたために、書いてる今日ふくらはぎの筋肉痛がドえらい。
運動不足解消、低代謝解消にこれ以上のものはないぐらい画期的かもしれん。
スクワットラストキープの比ではない。
なにより素晴らしいのは、30秒間一人でいられる場所を確保できればいつでもどこでも思い立った時にできること。
まぁ、一人で「全力その場ダッシュ」している姿を見せられるぐらい気の許せる人間関係を構築できていれば、その条件すらいらない。
そういう意味では、公園とかで運動するのがおっくうだとか、外とかジムとかなんか気恥ずかしいとか、そんなタイプのあなたたち(決めつけ!)にこそ最適な究極の密室お手軽全身運動ってな感じだ。
イメージだと下にドタドタ響きそうな気がするが、実際やってみると「響きづらい走り」ができる。
多少響いたとしても、30秒のことなのでよほどの深夜早朝でなければ問題ないレベルだろう。
これはもしかして、スクワットラストキープに続く私の世紀の大発見かもしれないと「その場ダッシュ」で検索をかけてみると、なんと10年前の「ためしてガッテン」で、「空腹感を感じなくなるダイエット法」として紹介されていたようだ(その後「林先生の初耳学」でも取り上げられてるみたい)。
気になるその場ダッシュのやり方ですが、結構簡単で文字通りその場でダッシュを20回(約10秒)するだけです。これをやると空腹感を感じなくなる効果があるとのこと。 ではなぜ空腹感を感じなくなるかと言いますと、その場ダッシュをすると脳内物質のアドレナリンが分泌されるからです。空腹を感じている時にアドレナリンが出ると血糖値が上昇し、脳が空腹でないと判断するらしいです。そのため空腹感を感じなくなると言うことですね。【その場ダッシュをやってみた!やり方とダイエット効果にも注目! – 中高年が本気で痩せるブログ】
そう、ガッテン流だと10秒ともっとお手軽。
メニューとしてもうちょいちゃんとやりたい場合、↓こちらの全力運動を「その場ダッシュ」にすればいいみたい。
これでも1セットは20秒。
個人的にはいっぺんでもぜひ30秒やってみてもらいたい。
私は30秒を最低到達ポイントとして45秒ぐらいやってみてるんだが、20秒台後半からの「ヒザが笑い出す感じ」がなんとも、ヒザと一緒に自分も笑い出して、私とヒザとで大盛り上がりである。
さてそんなところ。
それでは、オジさん(※私ではない)の「その場ダッシュ」でおわかれです。
山本太郎が教えてくれた私の気持ち悪さ
私自身が「いや急にナニ!?」って感じなんですが、なんかビタッときてしまったので書いておきます。
まず初めに言っとくことだけ言っとくと、個人的に「状況がリンクした」ような気がするってだけの話で、政治家山本太郎がどうみたいなことでは全然ありませんので。
さてとポテト。
今の山本太郎って、やっぱなんかどうしても気持ち悪いじゃないですか。
まぁ、出てきた当時からをザックリ知っててこその感情なのかもしれませんけども。
それにしてもこの気持ち悪さ、な~んか誰かに似てない?
誰だろ?
ん?
んン?
ンンン?
オレやん!?!?!
ってなったの。
いやね、山本太郎って、私の中ではとても面白い人だったワケです。
まぁダンス甲子園以後、それほど気にして見てたワケではないけども、見かければ「芸能界でイマイチ弾けきれてないみたいだけどオレは見てるからな!」って心の中で言う感じ。
俳優業については一切遭遇してないので感想なしですけど。
個人的に俳優山本太郎も政治家山本太郎も興味がなくて、結局ダンス甲子園まで戻っちゃうんだけど、あんな感じでメチャクチャやって周りの人を楽しませて活き活き輝いてる姿を求めてるってゆーかね。
本来は「エンターティナー山本太郎」というのが理想の形で、本人的にも楽しいし、周りのみんなもそんな太郎を楽しんでるって、それがサイコーじゃないですか。
誰しもが「世の中と相思相愛」みたいに生きられるのがユートピアやんかと。
それがなぜ今のような状況になってしまったのか。
完全に私の憶測ですけど、太郎的にはこんな感じなんじゃなかろうかと、ふと思ったの。
3.11からの原発きっかけで、いろんなことを知ったんでしょう。
そこで、「エンターテイメントどころじゃない」みたいなスイッチが入っちゃったのかなって。
本来自分のポテンシャルが発揮されるのは、人を楽しませることだと分かっていても、その前にどうにかしなきゃいけないことがこんなにあるのかと。
楽しませるよりまず助けないと、って。
(元親友の)伊集院光とのエピソードなんか知ると、普段から(というより普段の方が?)よくも悪くも相当にまっすぐな性格の人のようですし。
が、周りからすると「政治とかいいからメロリンQやってよ」ってなもんで、求められるポジションじゃないとこでがんばってるように感じちゃうのね。
でも、そんな急角度な方向転換しても今ぐらいのとこまでいくって、いずれにせよ常人じゃないんですよね。
って、そんな流れで今に至ってるんではないかなと。
「人を楽しませる才能のある人なのに、マジメなことしか言わなくなる」っていう状態。
そう、コレが言いたかったの。
さ、グンとスケールの小さな話になって、私のこと。
私の場合、人前に立つようなタイプではないんですけど、変なTシャツ作ったり、変な店やったり、こうやって文章書くにしてもありきたりなものにはしたくなかったり、まぁなんというか、(多くの人には受け入れられづらい類の)創作活動みたいなことが性に合ってるというかね、本来。
それがまぁ、自分で言うもんじゃないらしいですけど、人にないモノをまあまあ持ってるっぽいワケです。
んで、ごく一部の人がそんなんを見つけて楽しんでくれることがさらなる活力になりってな感じで。
それが、心身の慢性的な不調と「食えない」という現実によって、少しずつそういうことに気持ちが向かわなくなり、自らの「健康回復」にばかりピントを合わせて、情報収集して理解を深めてっていう日々。
「やりたいことを自然とやりたいと思えて、すんなり取りかかれる状態」にするために、まずは自分を助けなきゃって。
そうじゃない状態でムリヤリやってもしんどいしあんまり楽しくないのね。
シンプルに「健康」だけならまだマシだったんだけども、ここにコロナがきちゃったでしょ。
日頃の健康情報収集で鍛えられてしまった「知る力」をいかんなく発揮してしまって、コロナを入口にあることないこと知っては噛み砕いてって、なんかもう「なんだよこの人類の仕組みは」みたいなことにまでなっちゃって。
そんなんで、なんとなく周り見渡すと、(健康の本質を分かっていればなんてことのない)コロナに怯え、流れてくる主要メディアの情報を信じ、同調しない人間に敵意を向ける、なんとも残念な社会がすんなりできあがってる。
(※ちょっとここだけなぞらせてほしいんですけど、“コロナに怯え、流れてくる主要メディアの情報を信じ、同調しない人間に敵意を向ける”っていう流れを見て気づくことないですか?コレ、感情というか本能的な心の反応だけになってるんですよね。考えることが抜けて、全部感情のみで自分の行動が決まっちゃってるの。自然とそうなってるのか誰かしらの意図が働いてるのかは置いといて、ひとつ回避方法があるとすれば、自分から情報に触れにいくこと。それでなんか一個でも「おかしいな?」って引っかかればどんどんつながって考え出すはずなので)
「(自分の中でのいい意味で)下らない文章こねくり回してる場合じゃない」ってなっちゃうんですわ、どうしても。
ビルの受付でイジイジウダウダ自分はこんなはずじゃなかったみたいなことだけ下らなくこねくり回してれば、そこはかとなくユーモアを感じさせる底辺労働者だね~なんつってニタニタ読んでもらえてたものが、いつからか「毎日カップ麺食いながらマスクで守られてると思ってるヤツはバカだ」みたいなことばっかり(ばっかりではないけどな!)書くようになって、よく見れば所々イケ好かないしなんか面倒臭そうな気持ち悪いヤツだなって、(自他ともに)変化してってるのをなんとなく感じるんですよね。
多分そうでしょう??(※ネットリした気持ち悪い問いかけ失礼します)
っていう話でした。
山本太郎には申し訳ないくらいとばっちりな登場になりましてすみません。
いやだからなんか、余裕がなくなると、正面から「楽しいこと」に向かえなくなるんだろうなってなとこですよね。
あとは、一人ひとり好き勝手に生きてるようで、社会の在り方によって知らず知らず立ち位置変えられてるよなとか。
本来楽しいことに向かってる方が、自分のためにも他人のためにもなるはずの人が、楽しいことよりも、直接的な「問題解決」に向かわざるをえない状況ならそこに向かうしかなくなっちゃう。
山本太郎なんて、今YouTuberやったら相当面白いことしますよ多分。
前職の知見を活かして、「これなら罰金刑だけ!こんなことしてニュースに出てみた!」とか、完全にアウトなやつでも平気でやりそう。
てゆーか単純に自由にしゃべらせるだけで確実に面白いでしょうし。
どっかで区切りつけて、エンターテインメントの世界に戻ってほしいものですハイ。
私の方はまぁ、自分で考えて判断した上での行動で他人から「気持ち悪い人」だと思われるならそれはそれでしゃあないかなと。
「アイツ変わっちまったな」ってより、「元に戻るための長い模索」の最中って感じですかね、私の自覚としては。
早いとこ安定的なそれなりの健康を取り戻して、多くの人には求められづらい類の創作活動に精力的に取り組めるようになりたいものです。
コロナ社会に抗うと変人に見えてしまう件
少し前に、都知事選の「コロナは風邪」の人が逮捕されました。
建造物不退去容疑で逮捕「コロナはただの風邪!」と訴えていた国民主権党の平塚正幸党首とは? | 東スポ
私自身、「コロナは風邪」という主張については、似たような認識ではありますが、都知事選のポスターとかみれば、つい「ヨッ、変人!」みたいになります。
窪塚洋介でも山田孝之でも、相当な変わり者なんだろうな~とかも思います。
主義主張を好意的に受け止めていてもそうなんだから、特にそんなことを考えてない人たちからすると完全に理解不能なんでしょうね。
ここにきて、街でマスクをしていない人を見ることがますます少なくなっています。
それでもたま~に見かけると、なんかやっぱ変な人っぽく見えちゃうんですよ。
電車で麦とホップ飲んでるオジさんとか、独りでしゃべりながら通りすぎる麦とホップ飲んでるオジさんとか。
ハイソックスのオバさんとか。
私の感覚だと、ノーマスクにも大きく二種類、「対策としての効果が乏しい(というよりリスクの方が大きい)と考えている人」と、「ただ従いたくない人」がいる気がします。
もちろんマスクしてる人の中にも、本気で感染防いでると思ってる人もいれば、周りに合わせてるだけの人もいるでしょう。
いやべつに、どれかひとつを正当化しようなんて思ってなくて、どんな理由であれマスクをするもしないも自由でいいでしょとは思ってますかね。
(あくまで一般的な認識としてさえ)マスクの有効性が確固たるものでない中で、「100人中99人がマスクしてる世の中」って、私には異常に見えるんですけど、マスクをしてる99人からは、マスクをしてない1人が異常に見えるんですよね。
結局のところそれだけのことで、「みんなやってるのにやってない」から変な人になる。
おかしな話や。
そう、おかしな話も99人が信じれば正論になっちゃう。
つってもべつに、自分以外の99人を否定してるワケじゃなくて、違っててもよくない??ってだけなんだけどな。
ま、それでも社会のひと粒として、バランスとれるとこはとりながらやっていきますよ。
※一応最後に。まさかこんなヘンピなブログまでたどり着ける人にそんな人いないでしょうけど、「お前みたいなヤツが感染を広げるんだ!」って認識の方、マスクより先に見つけなきゃならないモノが山ほどあると思うゾ!
徒然と雪を眺めるオジさん
夕暮れ前の東京。
受付で雪を眺めている。
私は、外に向かう人が通る度「スゴいですね~」と言う。
すると、「ホントだ!」「うわ~」「スゴいねー!」などの声が上がる。
なんだかイイじゃないか。
お互いが「雪のスゴさ」に共感するのみ。
それだけでなんとなくいい雰囲気が生まれる。
冷えとりの効果もあってか、それほど寒さは感じない。
なかなか乙な、たまの雪である。
降っても降ってもアスファルトに溶けてゆく都会の雪のような、オジさんの徒然書きを終える。
じゃ、おやすむ~!!
日曜日に甘酒とスコーンとプリンと大根もちと豚ネギ煮とパウンドケーキとワンタンを作った
さてとポテト。
土曜日にナスDがサメを料理して食いまくるのを見た影響か、いろいろ作りまクリスティな日曜日でした。
お目覚めに、前日からヨーグルトメーカーで仕込んでいた初甘酒を頂く。
うまし甘し。
朝食は、チョコナッツスコーン。
安定のザックリ感。
お次はプリン。
生クリームがなかったので、卵、牛乳に加えてコクの足しになるかなとヨーグルトを入れてみた。
昨日食べたが、充分にうまし。
お昼は息子リクエストのママのうどんの添えものに、「大根もち」なるものを作ってみた。
おろしてほどほどに水を切った大根に、少量の片栗粉をまぜてひらべったくまとる。
海苔ではさんでフライパンであらかた焼いて、しょう油をつけてもっぺん焼いたらできあがり。
これがね、片栗粉でホントにモチモチなの。
また作ろう。
ちなみに小ぶりな大根一本で4枚分程度ですので、満足いくまで食べるとなると、おろし作業がなかなかの労力になること受け合いです。
次は、豚肩ロースとネギの煮物。
大根おろしの汁につけた肉とネギを、水、酒、砂糖、しょう油でクタクタに煮込むのみという図書館で借りた土井善晴先生レシピ。
まぁ、イメージ通りの味。
栄養だらけの大根おろしの汁の使い道を検索してみたところ、りんごジュースと混ぜるってのがあったので試してみました。
すると確かに辛くなく、「ちょっと不審なりんごジュース」というメニューなら普通に飲める感じです。
次、息子リクエストのパウンドケーキ。
結局コレ系は、バターの割合次第な気がする。
若干バターをケチったため、まぁそれなりのうまさ。
残りの半分は、バターを乗っけてトースターで焼いて食べてみよう。
ほんのちょっと塩をふると締まりそうや。
最後に晩ご飯、ワンタンスープ。
こちらのレシピと土井善晴先生のレシピの合わせ技。
スープは鶏がらで2~3時間ダシをとり、塩、酢、しょう油で味付け。
ワンタンの皮も作りますよ。
薄力粉と片栗粉と塩少々を水でコネコネ。
ビー玉よりちょい大きめぐらいにちぎって分けて延ばす。
タネ。
豚ひき肉、ネギ、小松菜、塩、ごま油をぬぎゅるゆぎゅる。
包んだら、6分ゆでてできあがり。
いやコレはうまし!
かなりアバウトに作ったものの、皮もっちり、肉ジューシー、スープ味わい深しと、すべてがマッチする感じで、ヒジョーにおいしかった!
ワンタンと大根もちと甘酒、リピート決定。
以上、画像とちゃんとしたレシピなしでズラズラお送り致しました~!!
最近のドキュメンタリーに思うこと【ザ・ノンフィクション】シフォンケーキを売るふたり
私まぁドキュメンタリーとか好きでよく見ますけど、最近思うんですよ。
病気を番組の「味付け」に使ってるパターンのやつはもういいかなって。
私自身が、なーんかよく分かんないモヤモヤとか、坐骨神経痛のしびれとか、自己免疫疾患とか、アレルギーとか、いろんな慢性症状に知らず知らず苦しめられてきて、自分ごととして調べたり治療したりして、間違いなく(意外と身近なところに)様々な原因があることが分かってきたり、的確にアプローチできれば良くなるってのも体感して。
んでまた、よっぽどの難病でなければ、けっこうな割合で同じような症状の人がいて、当たり前に日々カツカツの生活してたりする社会環境の中で、病気抱えながらも小粋な生活スタイル見出して意外とうまくやってます、みたいのだけ切り出して番組にするってのが、もうなんかちょっと受け入れづらくなってきたっつーかね。
ザ・ノンフィクション 2021年1月17日(日)放送 シフォンケーキを売るふたり ~リヤカーを引く夫と妻の10年~ - フジテレビ
(※一応言っとくと、あくまでテレビの感想でして、ご夫婦に対して悪い感情なんてのは一切ありませんからね!)
今回のシフォンケーキ屋の旦那さんがうつ病なんだけど、「まず治せや」としか思わなくなっちゃって(※治そうとしてないワケないでしょうけど)。
元々IT関連でバリバリやってて、本来すげーデキる人なワケですよ、哲さん。
それが、うつ病で働けなくなって、妻かおりさんの母のシフォンケーキをきっかけにして、なんとか今の自分でもできることってな感じで、リヤカーでシフォンケーキを売ることを始めたと。
自営で食べてくっつー(私からしたら)ハイレベルなチャレンジを、「これぐらいのことならできるかな」っつって、それぐらいのことをできちゃうポテンシャルの人なんだから、だったらちゃんと病気治そうやって。
番組では一応なんとなく良くなってる体だったけど、確実に治ってないし、多分うつ病だけじゃないのはアタシぐらいになると分かります。
なのに、(性格上?)青梅から池袋まで12時間リヤカー引っぱって歩いたりするの見てらんないんだって(※最後まで見たけど!)。
病気の苦しみって別に逆境でも修行でもなくて、避けられれば味わう必要のないもんなワケで、本人が(鈴木もぐらみたいに)「治療摂生クソ喰らえ」みたいな姿勢でないなら、まずとにかくそっちメインで取り組もうやと。
バリバリだった仕事やめても治らないってことは、まず間違いなく生活の中(触れている社会も含め)にまだ原因があるし、そこにアプローチできればきっと治るから。
お二人見てて、「大変だったねぇ」っていう充実感もまぁいいけど、日々もっとライトにハッピーに過ごせた方がよくない?って思うの。
なんかやっぱ、終始軽く重い雰囲気まとってるのね、哲もかおりも。軽く重い。
夫婦ってのはお互いのコンディションにモロに引っ張られますからね~。
乗りかかった船(たまたま見たテレビ)なんでおせっかい焼かせてもらいますけど、とにかくまず、哲さんの病気の原因究明ですって。
シフォンケーキ屋がグルテン不耐症なんてこともあるかもしれませんし。
まぁとりあえず、私のブログでも読んでみて下さい。
じゃ、おやすむ~!!
なにも変わっていない世界で勝手に変わっていく人類
ちょい前にウンウンうなづきながら読んだ、お医者さんのブログ記事を紹介しておきたい。
ウィルスという視点で、今世界で起きている現実はこういうことだと思う。
シンプルに引用すればコレ。
実は私達の世界は何も変わっていないのに、 「検査を通じて私達の世界を見る目が完全に変わってしまった」というのが実際のところであろうという考えに至ります。【実は世界は何も変わっていないのに - たがしゅうブログ 】
その他、けっこう読むのが大変な気がするので、かんたんに要点をまとめておこう。
PCR検査の陽性ってのは、「新型コロナ」とされているもののみを拾っているわけではなく、既存のコロナの仲間(従来の風邪やSARS、MARSなど終息したとされるものも含む)を全部ひっくるめて検出されてるんではないかと。
なぜかっつーと、PCR検査で遺伝子の中の「新型コロナ特有」とされる一部を検出してるとすると、変異しやすいRNAウィルスである「新型コロナ特有」の遺伝子配列が、一年経ってもまったく変化してないって考えにくくないかい?と。
本当に(一年ほど前に中国の研究機関が公表した)「新型コロナ特有」の遺伝子配列を検出するものだとしたら、今頃はなにも検出しなくなってるはずだろうと。
それでも陽性者がガンガン増えてるってのは、「新型コロナ特有」でなくて、もっと大元の部分で「(すべての)コロナ特有」の遺伝子配列を拾ってるからじゃないのと。
いわゆる風邪症状(従来のコロナ)が大半で、一部重症化するケースというのは、SARSなど終息したとされているウィルスが(これだけ検査すりゃ)検出されてるんでないのと。
新型コロナには、無症状感染があるっていうけど、それは単に、今まで無症状の人に検査するケースがなかったからじゃないかとも(※個人的に補足すると、サイクル数の問題も大きく関与するはず。無症状の陽性というのは過剰なサイクル数によるものかと)。
そもそもウィルス根絶なんてムリだろうと。
大きく言うとそんな感じで、状況から考えて、コロナ以前以後で特になにも変わってないというところに落ち着くって内容。
検査(という情報)によって人間が勝手に変わってるだけだと。
さて。
ハラリの言うとおり、人類繁栄の最大の要因が「フィクションを信じる力」であるなら、人類衰退の最大の要因もまた同じ「フィクションを信じる力」なのかもしれない。
一日ひとつは得るものがなければならないという囚われ
ちょっとハッとしたのでメモ。
なーんか、いつからか常に「日々に追われてる感」に追われている。
ただタスクをこなすかのような日々の中で、さらには、なにかしら「得るもの」を求めている。
いわゆる物質としての「モノ」ではなく、情報やそれに伴う理解が主だ。
得るものを求めることは、前向きに捉えれば成長欲求みたいな収め方もできる。
だがしかし、今の自分にとっては弊害の方がはるかに大きいのではないだろうかということに対して、ハッとしたワケなワケなのである。
四六時中得るものを求めているということは、四六時中得るものを手に入れていない現実と向き合い、そのフラストレーションを抱えているということ。
なんとなくいつも「こんなはずじゃない」みたいな気分が抜けないのはそのせいだろう。
常に得るものを求めていると、常に「得るもの」のためになにかをしていなければならないと思うようになる。
なにもしないこと、身にならなそうなことを許せない。
なんともしんどい日常ではないか。
今しかない目の前の子どもの成長に「全集中」せず、常になにか得るものを探して落ち着きなくフワフワしている。
これを書いている途中に気づいたこと。
得るものは「モノ」ではなく情報や理解だと書いた。
だがしかし、それなりに情報や理解を得てはいる。
なのに、それでもなぜフラストレーションを抱えるのか。
正しくは、情報やそれに伴う理解の先、そこからの行動だ。
そして、私の「こんなはずじゃない」感は、行動できていないことから生まれているっぽい。
大小はあるが、大きな行動はそうかんたんには起こせない。
それを毎日、「今日も動けなかった」なんてやってたら、そりゃくたびれる。
さて、「今日の気づき」が得られたところでおしまい。
じゃ、おやすむ~!!
今週のお題「大人になったなと感じるとき」